「先生」って呼ばれるたびに、なんだか申し訳なくなる

「先生」って呼ばれるたびに、なんだか申し訳なくなる

「先生」って呼ばれるたびに、なんだか申し訳なくなる

「先生」と呼ばれることに慣れないまま、十年以上が過ぎた

司法書士として仕事を始めてから、もう十年以上が経ちます。それでもいまだに「先生」と呼ばれるたびに、どこかむず痒さと申し訳なさが残ります。たとえば銀行の担当者が「先生、お手続きはこちらで」と丁寧に言ってくれる場面。こちらは前日深夜まで書類に追われて寝不足、髪はぼさぼさでネクタイも歪んでいる。そんな状態で「先生」と呼ばれると、「いや、自分なんかが…」と心の中でつぶやいてしまいます。「慣れますよ」と言ってくれた先輩もいましたが、私はどうも馴染めませんでした。

最初は嬉しかった。でも、だんだん居心地が悪くなってきた

開業当初、「先生」と呼ばれるのは一種のステータスのように感じていました。親に報告したときなどは、少しだけ誇らしい気持ちにもなりました。でも、しばらく経つとそれが重荷に変わっていきました。「先生」という呼び名に自分の中身が追いついていない感じが、だんだんと心に影を落としていきます。尊敬されるに値する人間である自信がない。ミスもするし、愚痴だってこぼす。「完璧じゃないといけない」という無言のプレッシャーが、日々の業務にじわじわとのしかかってくるのです。

名前ではなく肩書きで呼ばれる違和感

自分の名前よりも「先生」という呼び方で呼ばれることが圧倒的に多くなりました。郵便物、電話、訪問先、すべてが「先生」。稲垣という名前が薄れていくような気がして、自分が誰なのか分からなくなることもあります。肩書きによって人格を定義されているような、そんなもやもやした感覚があります。「名前で呼ばれたい」と思うのは、きっと贅沢なのでしょうか。

「稲垣さん」でいいのにと思う朝

ある朝、近所のスーパーでおばちゃんに「先生もお買い物ですか?」と声をかけられました。別に悪気はないのはわかっています。でもその日は疲れていたこともあって、「稲垣さんでいいですよ」と思わず口から出そうになりました。人との距離感を肩書きが勝手に作ってしまう。そんなとき、心の中で静かにため息が出ます。

「尊敬される存在」って、そんな立派な人間じゃない

人から見れば、「司法書士=しっかり者」「知的で誠実」「落ち着いている」…そんなイメージを持たれているようです。確かに、そういうフリをして仕事をしています。でも現実の私は、朝からイライラして、ミスに落ち込んで、コンビニのカレーに救われてる普通の中年男です。何もかもがうまく回っているように見えるかもしれませんが、実情はそんなに格好いいものではありません。

疲れてるし、怒りっぽくなってるし、余裕なんかない

最近は忙しさのせいか、感情の余裕がなくなってきている自覚があります。ちょっとしたミスにも過剰に反応してしまったり、電話の音に神経質になったり…。そんな自分に嫌気がさして、「こんなんで『先生』とか呼ばれていいのか」と思ってしまいます。疲れているときほど、自己嫌悪は深まるものです。だからこそ、「先生」と呼ばれることが、かえって自分を責める材料になるのです。

間違えることもあるし、完璧にはなれない

どんなに気をつけていても、ミスはゼロになりません。登記の手続きで補正を求められた日、全身の力が抜けるような脱力感を覚えました。そういうとき、「先生が間違えるなんて」と言われないかと怯える自分がいます。完璧を求められるのが当たり前の職業だからこそ、心のどこかで「こんな自分で申し訳ない」と感じてしまうのです。

それでも「先生」はいつも正しくあるべきらしい

トラブルが起きたとき、相談を受けたとき、こちらが体調不良だろうが家庭の問題を抱えていようが、「先生」は冷静で正確な答えを出さなければならない。そんな期待をされ続けると、だんだんと自分を押し殺してでも「先生」を演じることに慣れてしまいます。でも、その仮面を外せる場所がないと、いつか限界が来る気がしています。

一人でやってると、なおさら「先生」が重くなる

私の事務所は小さく、事務員さんがひとりだけ。ほぼすべての実務と責任が私にのしかかってきます。顧客対応、書類作成、役所まわり、急ぎの案件…。その中で「先生」と呼ばれると、「全部自分の責任だ」と再確認させられているような気持ちになります。支えてくれる人がいればまだいい。でも、孤独な現場では「先生」はときに孤独を加速させる肩書きになります。

ミスもトラブルも、全部「先生の責任」

事務員さんがミスしても、「最終的に見るのは先生ですから」と言われる。たとえ些細なことでも、責任は「先生」が取るもの。もちろんそれが仕事だというのは理解している。でもそのプレッシャーに押しつぶされそうになる夜もあります。誰かと愚痴を言い合える環境があれば違うのかもしれませんが、今のところ、話し相手は壁くらいです。

事務員さんに泣かれた日の帰り道

数年前、忙しい時期に事務員さんがちょっとした入力ミスをしてしまい、私がきつく注意してしまった日がありました。帰り際に彼女がぽろっと涙を流してしまって、それを見た私は猛烈に自己嫌悪に陥りました。あのときの「先生」としての自分の振る舞いを、今でも思い出してしまいます。誰かの感情を傷つけてまで守らなければいけない「先生」という立場って、いったい何なんでしょう。

「なんで自分がここにいるんだろう」と思った夜

その日の夜、車の中でエンジンもかけずに座っていました。「なんで自分がこんな場所にいて、こんな働き方をしてるんだろう」と、ふと虚しさがこみ上げてきました。子どものころに思い描いていた「大人の自分」は、もっと堂々としていたはず。けれど現実の自分は、ただ肩書きにしがみついて、誰にも見せられない顔で毎日をこなしているだけなのかもしれません。

それでも、やっぱりやめられないのはなぜか

それでも、この仕事を完全に嫌いになれないのは不思議です。「先生」と呼ばれるたびに気が引けても、その裏側には信頼や感謝があることも知っています。ときどき届く「ありがとうございました」という一言に、救われることもあります。自分の中でどこかに「人の役に立ちたい」という気持ちがあるから、たぶん続けているのだと思います。完璧じゃなくても、誰かのために動けることが、救いなのかもしれません。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。