一人焼肉と一人面談――誰にも焼けない孤独と、誰にも聞かれたくない本音

一人焼肉と一人面談――誰にも焼けない孤独と、誰にも聞かれたくない本音

焼肉も面談も、結局ひとり

「一人焼肉」と聞いて、寂しいと感じる人もいれば、気楽でいいと思う人もいる。僕は、どっちでもある。気楽だけど、寂しい。でも、司法書士という仕事をしていると、何でも「一人で処理する」が当たり前になってくる。書類も、スケジュールも、責任も。だから、プライベートでも仕事でも、「一人でいること」に不自然さを感じなくなっている。でもたまに、ふと、誰かと笑いながら肉を焼いてみたくなる。それくらいの弱さは、残しておきたい。

「あ、この人また一人か」と思われる恐怖

焼肉屋の暖簾をくぐるとき、店員の目を少しだけ気にしてしまう。「一人です」と言う瞬間に、なんとも言えない空気が流れることがある。別に悪意があるわけじゃない。でも勝手に、こっちが気にしてしまう。周りを見渡すと、楽しそうに笑うカップルや家族連れ。その横で、黙々と肉を焼く僕。味は変わらない。肉は肉だ。でも、心の奥に残る“何か足りない感”は、タレではどうにもならない。

一人焼肉で感じる“見られてる感”の正体

見られていると思っているのは、たいてい自分自身だ。誰もそんなに他人を見ていない。でも、孤独な時ほど視線に敏感になる。仕事でミスが続いていた週末、一人で焼肉屋に行った。肉を焼きながら、「あの書類、訂正印押し忘れてたかも…」とか考えてしまう。そんなときに、隣のテーブルの笑い声がやけに耳に残る。見られてる気がする、っていうのは、たぶん自分が自分を責めてるだけなのかもしれない。

「気にしてるのは自分だけ」なんて、そんな強くない

よく「人は自分のことしか考えていないから、気にしなくていい」なんて言うけど、それが通用するのは、自信のある人か、心が健康な人だけだと思う。僕みたいに、自己肯定感が強くない人間にとっては、「他人の目」を勝手に再生して、自分で自分を追い込む。誰も責めていないのに、勝手に責められている気になる。そんな自意識過剰が、静かに肉を焼く空間を、少しだけ息苦しくさせる。

一人面談の壁は、沈黙が多いことじゃない

司法書士として独立してから、いわゆる「面談」は自分一人でやるようになった。クライアントとの相談も、自分自身の振り返りも。誰かが評価してくれるわけでもないから、良かったことも悪かったことも、自分で噛み締めるしかない。ノートに「今月の反省」なんて書いてみても、誰も読んでくれない。だからこそ、「何のために振り返ってるんだっけ?」と、虚しくなることもある。

上司も部下もいない。だから誰にも言えない

ひとり事務所だから、愚痴を言える相手も限られてくる。事務員さんはいるけれど、業務のことで僕がうまくできてない話を気軽にはできない。自分が代表であり、責任者だから、弱音は裏で飲み込むしかない。でも、人間だから失敗もするし、誰かに「よくやってますね」と言ってほしい時だってある。けどそれが叶わない現実に、面談という時間が余計にしんどくなる。

評価も反省も、全部ひとり芝居

僕がノートに「今月はスムーズだった」と書いても、それはただの自己評価でしかない。他人の目線が入らない反省は、どうしても甘くなったり、逆に辛くなりすぎたりする。つまり、全部ひとり芝居。役者も観客も僕一人。そんな中で「これでいいのか」と問う時間は、自己肯定と自己否定の間でゆらゆら揺れる、不安定なバランスゲームだ。

なぜ一人になってしまうのか

気づいたら、一人で焼肉を食べて、一人で面談して、一人で悩んでいる。それが今の僕の日常。望んでそうなったのか、気づいたらそうなっていたのかは、もうわからない。でも、司法書士という仕事の性質上、「誰かに頼る」とか「チームで何かをする」ということが少ないのは事実だ。そして、気づかぬうちに、人間関係の距離感も広がっていた。

事務員さんがいてくれるだけでありがたいけど

一人で仕事をしていると言っても、正確には事務員さんがいてくれている。彼女がいなかったら、もっと精神的に潰れていたと思う。ただ、やっぱり立場の違いがあるから、完全に心を開いて話すわけにはいかない。「あ、先生疲れてます?」とたまに声をかけてくれるのが、どれだけ救いになっているか。でも、そこに甘えるわけにはいかないという変なプライドが、自分を縛ってしまう。

でも悩みは共有できない。まして焼肉の話なんて

この前、ふと「一人焼肉行ってきたんですよ」と話してみようかと思ったけれど、やめた。仕事の相談ならまだしも、プライベートな孤独感まで持ち込むのは違う気がして。僕の悩みや愚痴は、たぶん誰かに理解してもらうものじゃなくて、自分で焼いて、自分で食べて、自分で消化するものなんだろう。面談も同じ。誰かに相談するための時間じゃない。誰にも見せない弱さを、自分で支えるための儀式のようなものだ。

モテないのは別にいいけど、誰かと話したい夜はある

正直、もうモテようとは思ってない。でも、誰かと他愛ない話をしたい夜はある。テレビを見ながら、仕事のことを忘れて、「なんでもない話」をするだけでも、救われる気がする。でも、それができる人がいない。それができる環境もない。そんな時に、一人焼肉や一人面談が、余計に自分を追い詰めてくる。肉を焼く音と、ノートをめくる音だけが部屋に響く。

たまに「そろそろ結婚したら?」と言われるけど

親戚や同業者にたまに言われる。「結婚しないの?」って。する気がないわけじゃない。でも、生活も心も、誰かと共有する準備ができてない。誰かと一緒にいるということは、自分をさらけ出すことだ。でも、日々自分にダメ出ししながら仕事してると、「こんな自分を見せていいのか?」と不安になる。だから一人でいる。それは“選んだ孤独”というより、“手に取れる安心感”なのかもしれない。

そんな簡単な話じゃない。自分のことがわからない

結局のところ、自分自身が一番よくわかっていない。何をしたいのか、何が足りていないのか。焼肉のように、じっくり焼けばわかる、っていうもんでもない。面談ノートを開いても、答えは書いてない。ただ、問いが残ってるだけ。でも、その問いを持ち続けることが、生きていくってことなんじゃないかと、最近は思う。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。