感情を置き去りにして進む日常
司法書士として日々の業務をこなしていると、「感情」を表に出さないことが当たり前になっていきます。登記の申請、相続の相談、借金の整理……依頼者の背景には複雑な感情が渦巻いているものの、こちらは淡々と処理を進めなければならない場面がほとんどです。悲しい話に出会っても、笑顔を見せられても、内心が動いてはいけないような気がしてきます。まるで、自分の心をひとつ奥に引っ込めて鍵をかけるような感覚です。
「仕事だから」の一言で済ませていいのか
「仕事だから仕方ないよね」――便利な言葉です。でも本当にそれでいいんでしょうか?以前、依頼者の方が「亡くなった母のことで相談がある」と言って、目に涙を浮かべながら来所されました。正直、自分も胸が熱くなったけど、笑顔で「まず戸籍を確認しましょう」とだけ言いました。その時の自分の無機質な声が、今でも耳に残っています。感情を殺すことでプロとしての振る舞いを保つ。でも、それは本当に正解なのか。ふと、そんな疑問が浮かぶのです。
感情を出すと「専門職らしくない」と言われる現実
昔、一度だけ泣いている依頼者につられて少し目が潤んだことがありました。その後、「ちょっと情に流されすぎじゃない?」と同業者に言われたのを覚えています。それ以来、自分の中で「泣かない」「同調しすぎない」「冷静を装う」というスイッチができてしまいました。まるで、感情を持っていること自体がこの仕事にとってマイナスのように感じられる瞬間があるのです。でも、本来、感情を持つことは人間として自然なこと。それさえ否定されるような風潮には、やはりモヤモヤが残ります。
冷静と無表情が求められる世界の裏側
外から見れば、司法書士という職業は常に冷静で理論的な判断を求められる職種だと思われているでしょう。だからこそ、感情を表に出すことが「不適切」に思われがち。でも、冷静さの裏では、人としての気持ちをひたすら抑えている現実があります。冷たく見えても、何も感じていないわけじゃない。怒りや悲しみや戸惑いをぐっと飲み込んで、ただ「仕事だから」と自分に言い聞かせる日々。その積み重ねが、じわじわと心を摩耗させていくのです。
感情を押し殺すことの代償
感情を抑えることで、その場は乗り切れます。依頼者との適度な距離も保てるし、業務もスムーズに進みます。でも、それを何年も続けていくと、ある日ふっと「何も感じなくなった自分」に気づくことがあります。怒りもしない、悲しみもしない、ただ作業をこなすだけの毎日。自分はいつからこんな人間になったんだろう?そんなふうに、過去の自分を思い出しては虚しさを感じる瞬間があります。
蓄積されるストレスの逃げ場はあるか
本音を言えば、感情を押し殺すことが一番のストレス源です。でも、それを誰かに話す場も、吐き出せる時間もなかなかありません。事務員には心配かけたくないし、同業者に話しても「そんなの甘えだ」と言われそうで。結局、誰にも言えずに一人で飲み込む。それが日常になっていきます。夜中、ふと目が覚めて眠れなくなる日もあります。感情の蓋を閉じたはずなのに、心のどこかでうずいているんでしょうね。
「燃え尽きたな」と気づいた瞬間
ある日、相続登記の相談が三件続いたときのこと。どの依頼者も、それぞれに悲しみを抱えているのが伝わってきました。でも、僕の対応は全部同じようなフレーズ、同じような口調で処理していました。その夜、ふと鏡を見たとき、あまりに無表情な自分が映っていて、「ああ、俺、燃え尽きてるな」と思いました。心がカラカラに乾いている感覚。誰かに「頑張ってるね」って言ってもらいたい。でもそんな言葉も、届かない気がしていました。
怒りを見せられない立場
仕事をしていると、時には怒りがこみ上げることもあります。理不尽なクレーム、無理な要求、あきらかに嘘をつく相手……。でも、こちらは「士業」としての立場がある。だから怒りを表に出せない。いや、出してはいけない。どんなに内心が煮えくり返っていても、「冷静に対応する」のがプロだと自分に言い聞かせます。それがどれだけ心に負荷をかけているか、誰にも分かってもらえません。
理不尽なクレーム対応も淡々と
先日、「お宅が手続き遅いせいで損した」と怒鳴り込んできた依頼者がいました。でも、それは明らかに先方の書類不備。説明しても聞く耳持たずで、こちらの話を遮って怒鳴り続ける始末。それでも僕は、淡々と事実を説明し、謝罪の言葉を繰り返しました。もちろん納得なんかしてくれません。帰ったあと、デスクに突っ伏したくなったけど、そんなことしても何も変わらない。悔しさも怒りも押し殺して、ただ静かにまた次の仕事に取り掛かるしかありませんでした。
本音を飲み込むことが「プロ」なのか
「本音を出すな、それが大人だ」って言われたことがあります。でも、それって本当に正しいんでしょうか?僕たちは人間です。理不尽に対して腹も立つし、悲しい話には心が動きます。それを全部飲み込んでしまって、本当に良い仕事ができているのか、最近は疑問に思います。感情を出すことで信用を失うのなら、それは社会のほうが冷たすぎるのではないかと思ってしまいます。
言い返したくても言えないジレンマ
嘘をついて責任をなすりつけてくる人に対して、「それはあなたの落ち度です」とはっきり言いたい。でも、それを言ってしまうと関係がこじれる。悪者扱いされる。だから、やんわりと濁して、逃げ道を作ってあげる。そんな対応が求められる。でも、本当は言いたいんですよ。「ふざけんな」って。でも言えない。立場的に、言っちゃいけない。だから、溜まっていくんです。心の奥底に、どす黒い感情が。
感情を殺すことに慣れてしまう怖さ
最初は「仕事だから」と割り切っていた感情の抑制。それがいつしか「何も感じないことが楽だ」となってしまう。そんな自分に気づいたとき、怖くなりました。喜怒哀楽が薄れていく。何をしても心が動かない。淡々と処理することが美徳のように思えてくる。でもそれって、本当に幸せな生き方なんでしょうか?このまま感情を失った人間になっていくのは、やっぱり嫌です。
「人間味」が薄れていく恐怖
昔は、ドラマを見て泣いたり、友人の悩みに本気で共感したりしていたはずなのに、最近は何を見ても心が動かないことが増えました。依頼者の話にも、「ああ、よくあるケースだな」と思うばかりで、以前のように一緒に悩めなくなってきた気がします。これは経験を積んだせいなのか、それとも単に「慣れ」で麻痺しているのか。感情の起伏が減っていくほどに、自分が「人間」でなくなっていくような怖さがあります。
無関心ではなく「防衛本能」だと信じたい
感情を抑えることは、ある意味で自分を守るための防衛本能なのかもしれません。毎回心を動かしていたら持たない。だから、少しずつ心に壁を作る。それが自然なことだとも思います。でも、完全に無関心になってしまうのは違う。心を守りながらも、人としての優しさや共感を失わないようにしたい。そう思って、今日もまた、無表情を装いながら、心の奥で小さくうなずいている自分がいます。