報酬の話を切り出した瞬間、何かが変わった気がした
「お見積書をご確認いただけますか?」——その一言を発した瞬間、依頼人の表情がわずかに曇った気がした。気のせいだろうかと自分に言い聞かせつつ、内心では「しまった」と感じていた。これまでに何度も経験してきた「報酬の壁」が、また目の前に立ちはだかったのだ。こちらは淡々と業務に必要な対価を説明しているつもりでも、相手にとっては「お金の話」に突入した途端、空気が変わる。そんな感覚を覚える場面は、現場では決して珍しくない。
こちらは当たり前の説明のつもりだった
報酬について話すことは、仕事の一環。だからこそ、見積書を提示する時も、説明の口調は丁寧かつ冷静に心がけている。法務局の登録免許税、郵送費、謄本取得費用、そして当職の報酬——何一つ不透明な点はないはず。にもかかわらず、なぜか空気が張り詰める。先日も、ある依頼人に「それって全部でいくらになるんですか?」と問い返された。見積書にすべて書いてあるのに、という虚しさと同時に、「お金に敏感なんだな」と察した。
料金表も提示済み、でも空気がピリッと
事務所には報酬の目安を記したパンフレットも置いてある。初回の電話相談でも「ご依頼の際には、正式な報酬表をご案内いたします」と事前に伝えている。それでも実際に金額が明示された瞬間、多くの人の態度はどこか変わる。先日は、「え、そんなにかかるんですか?」という素直な反応が返ってきた。こちらからすれば適正価格なのだが、どうも「高い」と思われがちなようで、それが表情や語気ににじむのを見て、言いようのない疲労感が押し寄せた。
「あ、やっちまったかも」と感じた瞬間
私の話し方が悪かったのか、それとも金額そのものが予想外だったのか。報酬の話題を出した瞬間、「あ、この人もう帰りたいんだな」と感じることがある。ある時は、説明を始めて30秒で「ちょっと考えさせてください」と席を立たれた。ドアが閉まる音を聞きながら、こちらはただ机の上の見積書を見つめるだけ。悪気はなかった。むしろ誠実に伝えたつもりだった。それでも、何かがすれ違ってしまった——そんな思いが胸に残るのだ。
そもそも、報酬の話ってこんなに気を遣う?
仕事として当然に行っている説明のはずなのに、なぜこんなにも神経をすり減らすのだろう。別にぼったくっているわけでもないし、利益率なんてたかが知れている。それでも「この金額に納得してもらえるか?」という不安は常に付きまとう。司法書士の仕事は、専門性が高い割に、世間的には「報酬の相場」が知られていない。だからこそ、毎回ゼロから説明し、納得を得る作業が必要になる。ここに、精神的なコストが乗っかってくるのだ。
お金の話を嫌う人は少なくない
日本人の文化的な背景として、「お金の話をするのははしたない」という空気がある。そのせいか、「報酬について少しご説明を…」と切り出すだけで、なんとなく相手の反応が冷たくなる気がする。たとえこちらが論理的に説明しても、感情面での拒絶反応は避けられない。「信頼してたのに、急にお金の話?」という戸惑いが表情に出る人も少なくない。だから毎回、こちらの心も少しずつ摩耗していく。
「安くしてくれるんでしょ」的な圧に負けそうになる
報酬を提示したあと、「もうちょっと何とかならない?」という一言が来ることもある。「それって交渉の余地があるってこと?」という目線。こちらも人間だ。強く出られると、つい「じゃあ少しだけ…」と言ってしまいそうになる。だが、それをしてしまうと次の依頼者にも説明がつかなくなる。「値引きの前例を作るか、意地を張るか」。いつもその板挟みに苦しむのだ。
自分の価値を自分で下げてしまうジレンマ
値引きは、相手には好意的に映るかもしれないが、自分の中では敗北感が残る。「自分の仕事にはこのくらいの価値しかない」と暗に認めたような気分になる。特に、専門職としてやっている自負があるからこそ、「言い値で納得してもらえなかった」ことに小さな傷が残る。積もり積もって、自信を失いかける日もある。報酬交渉は、ただの金額の問題ではなく、自己肯定感との戦いでもあるのだ。
でも、こちらだって生活がある
司法書士も、所長も、ただの一人の労働者だ。私には家族もいるし、事務所を維持する経費もある。電気代も紙代も上がっていく一方。無料相談ばかりしていたら、あっという間に事務所が回らなくなる。だから、報酬の説明は「嫌われるかもしれない」という不安とセットでも、避けるわけにはいかない。気まずくても、勇気を持って話すしかない。それが経営するということだと、自分に言い聞かせている。
報酬を値切られた時のダメージ
「そんなに取るの?」と言われた瞬間、心にザクッと傷が入る。特に、こちらが親身になって話を聞いた後だったりすると、そのギャップに深く傷つく。サービス業に近い部分があるとはいえ、やはりこの仕事には責任と専門性がある。報酬は、その対価のはずだ。それなのに、軽く扱われたと感じると、ただただ虚しい気持ちになる。そして、それを誰にも吐き出せないのがまたつらい。
「そんなに取るの?」の一言が刺さる
ある時、相続登記の相談で「8万円です」と答えたら、「えっ、たったそれだけのことで?」と言われた。思わず笑ってごまかしたが、内心はグサグサだった。たったそれだけのことで、何時間も役所とやり取りして、登記情報を整備して、法的責任まで負うのに。それでも「たったそれだけ」にされてしまうのだ。こういう時、やるせない思いをどう処理すればいいのか、未だに答えが出ていない。
それでも笑って対応してしまう自分が嫌になる
文句を言っても仕方がない。お金の話は感情に触れやすいからこそ、穏やかに、丁寧に、笑顔で——そう自分に言い聞かせる。でも、帰宅して一人になると「何であんな言い方されても笑ってたんだろう」と自己嫌悪に陥る。もっと自分を守っていいはずなのに、傷つくのを避けたいがために、反射的に笑ってしまう。その癖が抜けないのが、いちばん悩ましい。
それでも、また次の相談者が来る
報酬の説明で嫌われたかもしれないと思った翌日も、また誰かが相談に来る。人は絶えずやってくるし、必要とされていることも確かだ。だから、この小さな違和感や孤独感を抱えたまま、私は今日も報酬の説明をする。それが仕事であり、私の人生の一部でもあるのだ。
報酬の話で傷ついたとしても、仕事は回る
傷ついた日は確かにある。でも、感謝された日もあった。「この値段で全部やってくれるんですね。助かりました」と言ってもらえるだけで、報酬の重さが少し軽くなる。そういう瞬間の積み重ねで、なんとか持ちこたえている。報酬の話は難しい。でも、それを乗り越えて、信頼を築けたときの達成感は、他では味わえないものだ。
報われた瞬間もあるからやめられない
ある高齢の依頼人が、手を握って「ありがとうね」と言ってくれたことがある。その時、涙が出そうになった。金額では測れない信頼が、そこにはあった。だから、また頑張ろうと思えるのだ。報酬の話は、時に人を遠ざける。でも、心を通わせられた時、それを超える絆が生まれることもある。
嫌われた“かもしれない”日も、積み重ねの一部
結局、あの日嫌われたのかどうかは、今でもわからない。ただ、どんな反応だったとしても、それも含めてこの仕事なのだと思うようにしている。うまく伝えられない日、誤解された日、逃げ出したくなる日——それらを越えて続けてきた自分を、少しだけ誇りに思っている。報酬の話で空気が変わっても、それでも私はまた、今日も誰かに話しかけるのだ。