あの日の立会――寒さと静寂が支配する法務局の廊下で
立会の現場は予想外のことが起こりがちだが、あの日ほど心臓に悪い日はなかった。冬の寒い午後、法務局の片隅の廊下で、私は一人の高齢の依頼人と待機していた。いつもなら談笑しながら時間を潰すのだが、その日は妙に口数が少なく、表情も硬かった。寒さのせいか、体調のせいか、嫌な予感が胸の奥をよぎった。だが、その予感が現実になるとは、思いもしなかった。
予定通りにいかないのが日常業務
司法書士の仕事に「予定通り」という言葉は存在しないと言っても過言ではない。どれだけ事前に準備を整えても、当日の天候や人の体調、さらには書類の不備など、思わぬ落とし穴が待っている。あの日もまさにそんな日だった。
書類は整った。でも人は整わない
必要書類は完璧に揃っていた。事前のチェックも済ませ、法務局との予約も確認済み。すべてがスムーズに進むはずだった。しかし、依頼人の体調までは事前に確認しきれない。「今日はちょっと寒いですね」と笑っていた依頼人の言葉に、どこか力がなかったことを今でも思い出す。
「体調、大丈夫ですか?」から始まる違和感
廊下で数分待っていると、依頼人がふと額を押さえ「ちょっとめまいがします」と言った。すぐにイスを勧めたが、その時にはすでに顔色が青白くなっていた。普段なら冗談を言って笑わせてくれる方だったが、その日は別人のようだった。まさかこの後、救急車を呼ぶことになるとは――。
高齢の依頼人が見せた突然の異変
体調不良は突然だった。緊張と寒さ、そして加齢による体力の問題が重なったのだろうか。廊下の冷気の中で、依頼人の手が震え、座ったまま意識が遠のいていく様子を目の前にした時、ただただ焦るしかなかった。
顔色の変化に気づいた瞬間
司法書士として依頼人の変化には気を配っているつもりだったが、明確な異変に気づいたのは本当にその時だった。「ちょっと寒いですね」という軽い言葉に隠されたSOSに、私は気づけなかった。顔色が灰色に近くなり、視線が定まらなくなった瞬間、ようやくただごとではないと察した。
焦る私、戸惑う事務員、動かない法務局
私が依頼人に声をかけると同時に、事務員が慌てて水を取りに走った。しかし、肝心の法務局の職員たちは遠巻きに様子を見るだけで、特に動く気配もない。「ああ、こういう時、誰も助けてはくれないんだな」と妙に冷静な自分がいた。電話の手が震える中、救急車を呼ぶという判断だけはすぐにできたことがせめてもの救いだった。
責任感と無力感のあいだで揺れる
目の前の依頼人の具合が悪くなっていく中で、私は何もできなかった。ただ、ただ付き添って声をかけるだけ。司法書士として、いや、人として、もっとできることがあったのではないかと自問する時間が始まった。
司法書士は医者じゃない、それでも…
医師ではないし、看護師でもない。それでも、人の命を預かる現場に立ってしまうことがある。そんな時に必要なのは、法律の知識ではなく、判断力と覚悟だと痛感した。たかが立会、されど立会。油断していたのは、私だったのかもしれない。
「判断力」が試される瞬間はいつも突然
司法書士という仕事は、意外にも「緊急対応」を求められることがある。認知症が進行していて契約の可否を見極める場面や、今回のような体調不良など、その場で判断しなければならないケースは少なくない。「あとで考える」は通用しない。
救急車を呼ぶか、立会を中止するか
法務局の窓口を目前にしながら、「このまま続けてよいのか」と頭の中で何度も問い直した。結局、立会は中止。命に関わるかもしれない状況で、それ以外の選択肢はなかった。依頼人の家族にも連絡を入れ、付き添って病院へ向かった。事務所の仕事はすべて後回しだった。
現場対応に潜む見えないプレッシャー
あの時のプレッシャーは、今思い出しても重い。依頼人の命と責任、自分の立場、法務局との関係。すべてが頭を駆け巡る中で、冷静な判断をしろというのは、なかなか酷なことだ。
立会の場所選び――「あたたかい部屋」は贅沢か?
法務局の廊下は、はっきり言って寒い。暖房は効いておらず、長時間待つには適していない。だが、待合室が空いていなければそこで待つしかない。立会は「儀式」ではあるが、依頼人にとっては肉体的負担を伴う場でもあることを痛感した。
設備も人も冷たい現実
立会のための設備が整っている場所は限られている。簡易イスしかない、暖房も効かない、プライバシーも守られない。法律上の要件ばかり重視されて、人の「居心地」はなおざりにされている。地方の現実だ。
法務局職員の反応に感じた違和感
決して責めるつもりはないが、法務局の職員の反応は淡々としていた。マニュアル外のことはやらない、という姿勢が見えた。制度は守られているのかもしれないが、人間味が欠けているように感じたのは私だけだろうか。
事務所に戻ってからの疲労と反省
病院から事務所に戻った時、ぐったりと疲れが襲ってきた。事務員も黙り込んでいた。今回の件で何を学ぶべきか、どうすれば次に活かせるか、それを考える余裕もないほど、精神的に消耗していた。
高齢者対応の体制、整っていなかったのはこっち
「高齢の方が多いのだから、何かあったときのマニュアルくらい用意しておくべきだった」。その言葉が頭の中でずっと鳴っていた。緊急連絡先、かかりつけ病院、事前確認事項…。自分の甘さにただただ呆れるしかなかった。
「もしものマニュアル」がなかったことの後悔
日々の業務に追われ、後手後手に回っていたリスク管理。実際に「もしも」が起きてからでは遅い。今回の件をきっかけに、体調不良・認知症・キャンセル時の対応などを含めたマニュアルを作成することにした。備えは、司法書士にとっても「命綱」だ。
次に備えて、できることを見直す
ミスを責めるより、次にどう活かすか。それが士業としての最低限の姿勢だ。次の立会で同じことが起きたとして、私は今回より冷静に動けるだろうか。それを想像しながら、少しずつ準備を整えていくことにした。
事前ヒアリングの重要性を改めて知る
体調、持病、緊急連絡先、家族の同席可否。依頼人の状態を事前に知っていれば、防げたことは多い。「大丈夫ですか?」ではなく、「体調について事前に確認させてください」と言えるかどうか。それがプロとしての差になる。
家族の同席は必要か?
本人の意向だけでなく、家族との連携も重要だと感じた。特に高齢者の場合、家族の同席によって安心感が生まれ、体調管理にも役立つ。法律的な観点だけでなく、「人」としての配慮が欠かせない。
立会当日の服装や持ち物にも注意を
寒さ対策としてブランケットを持参してもらう、温かい飲み物を準備しておくなど、ちょっとした配慮で大きな事故は防げるかもしれない。高齢の依頼人にとっての「過酷な一日」をいかに緩和できるか。そこに士業としての工夫が問われる。
それでも立会は続く――同じような日常のなかで
今回の件は特別なことだったのかもしれない。しかし、同じような立会は今後も続いていく。高齢化社会の中で、こうした「ギリギリの現場」はますます増えていくだろう。私はこれからも、あの寒い廊下の記憶を胸に立ち会い続ける。
誰のための立会か、自問自答する夜
この仕事は誰のためにあるのか。依頼人のため、家族のため、社会のため、そして自分のため。そう自問する夜は少なくない。だが、あの日の依頼人の手の冷たさを思い出すたび、「人のため」に立っていた自分を、ほんの少し誇りに思いたくなる。
依頼人の不安を受け止める覚悟
手続きの正確さだけでなく、依頼人の心の揺れをどう受け止めるか。それが司法書士のもう一つの仕事かもしれない。寒い廊下で凍えながら、私はそれをようやく理解した気がする。