何も極められないまま、大人になってしまった気がする日

未分類

何も極められないまま、大人になってしまった気がする日

何もかもが中途半端に思える朝に

目覚めた瞬間から、どこか気が晴れない日がある。仕事が山積みなわけでもないのに、やる気が湧いてこない。そんな日は決まって「自分って何をやってきたんだろう」と、ふと考えてしまう。司法書士として十数年やってきたけれど、「これが自分の武器だ」と胸を張って言える何かが、未だにない気がする。何もかもが中途半端で、ひとつも極められないまま、歳だけが増えていく。そんな自己嫌悪に包まれる朝だ。

気がつけば45歳、何をしてきたのか

独立してからもう何年経っただろう。最初の頃は右も左もわからず、ただひたすら目の前の依頼に応えていた。気づけば45歳。ありがたいことに仕事はある。でもふと、自分はこの仕事を“極めた”といえるのか?と問うと、答えに詰まってしまう。世間では「専門性を持つことが大事」と言われるけれど、果たして自分は何の専門家なんだろうか。答えが出ないまま、ただ時間だけが過ぎていく。

「器用貧乏」という言葉が刺さる日

何でも一通りこなせる。でも「これだけは任せろ」と言える分野がない。そんな自分に、たまに「器用貧乏」という言葉が突き刺さる日がある。もちろんお客様から感謝の言葉をいただくこともあるし、手続きを無事終えた達成感もある。でも、それは“プロフェッショナル”としての満足感とは、少し違う。趣味でも仕事でも、深く極めることなく、浅く広く器用にこなしてきただけなのかもしれない。そんな自問自答に疲れることがある。

専門家のはずなのに、迷いは消えない

資格を取ったときは「これで一生食べていける」と思っていた。でも実際に開業してみると、ただの“資格持ち”では通用しない。お客様に求められるのは、信頼と結果。そのために幅広い知識と経験が求められる。なのに、どこまで行っても“自信”はつかない。周りの司法書士と比べてしまう自分もいる。

登記、相続、裁判書類…どれもやってきたけれど

不動産登記も相続業務も、簡裁訴訟代理の書類作成も、すべて一通りはやってきた。でも振り返ってみると「これは自分の看板業務です」とは言えない。その場その場で必要とされたことを、ただこなしてきただけかもしれない。それが悪いわけじゃない。でも、心のどこかに「これでよかったのか」という空虚さが残るのだ。

依頼には応えている、でも「極めた」とは言えない

依頼があれば調べ、実務書をひっぱり出し、相談に応じて対応する。それで十分だと自分に言い聞かせてはいる。でも、常に“及第点”をとっているだけのような気がしてならない。誰にも怒られないし、苦情もない。でも、それは“満足”ではない。自己評価として「まあまあ」で止まってしまっている自分がいる。

幅広さが武器になる? いや、ただの散漫かもしれない

「幅広い業務に対応できますね」と言われることがある。確かに、どんな相談でも一度は聞けるし、初動の対応もできる。でも、それって“何でも屋”というだけかもしれない。広く浅く、というのは褒め言葉にもなるが、裏を返せばどれも中途半端。そんな自己認識に、誇らしさよりも不安が勝る日がある。

成功とは何か、司法書士の“正解”とは何か

“成功している司法書士”とは何か? 売上の高い人? 事務所を拡大している人? メディアに出ている人? それとも、地元に根ざして安定している人? 答えは一つじゃないとわかっているけれど、それでも自分と他人を比べてしまう。見えない“正解”を追い続けて、ただ疲れてしまう。

同期と比べてしまう夜

かつて一緒に勉強していた仲間たち。今では立派なオフィスを構えている者もいれば、司法書士会の役職に就いている者もいる。SNSで見る彼らの活動報告に、心がざわつくことがある。自分は何をしてきた? 何を築いた? 夜にひとり、そんな問いに襲われると、眠れなくなる。

事務員一人、孤独な経営者の葛藤

ありがたいことに、信頼できる事務員が一人いてくれる。でも、経営や方針、リスク判断をするのはすべて自分だ。相談する相手もいない。外から見れば“個人事務所のボス”かもしれないが、内実は、孤独で決断疲れの毎日だ。誰かに「これでいい」と言ってほしくなる時がある。

中途半端を肯定してみる試み

最近、少しだけ考え方を変えてみることにした。中途半端だと嘆くより、「広く対応できる」ことを強みにしてみる。実際、依頼者のニーズは多様化している。専門特化も大事だが、広く対応できることもまた、ひとつの価値だと信じてみたい。

「多能工」時代の司法書士像

製造業で「多能工」が注目されているように、司法書士にも“幅広い対応力”が求められている時代かもしれない。登記も裁判も成年後見も、垣根を越えて対応できるからこそ、選ばれる事務所になる可能性もある。少しずつ、そんな見方ができるようになってきた。

一点特化よりも、求められる“なんでも屋”

一点特化で成功している先生を見ると羨ましくなる。でも、全員が全員そうなる必要はない。地域に根ざして、「どんな相談でもとりあえずこの人に聞けば何とかなる」と思われる存在でいることも、大事な価値だ。専門特化よりも“信頼の積み重ね”が武器になる。

中途半端だからこそ届く依頼もある

登記一本でやっている先生には相談しにくい、そんな案件もある。「こんなこと聞いていいの?」と思われるような曖昧な相談。でも、そういうものに対応してきた経験が、今につながっている気もする。中途半端だと感じていたキャリアも、実は“幅の広さ”だったのかもしれない。

それでも今日も仕事はある

不安も迷いもある。でも、朝になると机に向かい、電話を取り、依頼に応えている。誰に誇れるわけでもなく、淡々と。だけど、それが積み重なって、今の自分の仕事を作ってきた。極めていないかもしれない。でも、それでも誰かの役に立っている。そう思えるだけで、今日は少しだけ前向きになれる。

「極めてない」自分でも役に立てる

完璧じゃなくても、不器用でも、実務の中で役に立つことはある。必要なのは、専門性ではなく“誠実さ”かもしれない。正解がわからないなら、せめて丁寧にやる。それだけでも、感謝される仕事ができる。極めていない自分でも、価値があると信じたい。

自分を許すことから始めるプロ意識

何者にもなれていないと感じる日こそ、自分に厳しくなりすぎないことが大事だ。プロとは、常に正解を持っている人ではなく、迷いながらも誠実に対応する人のことかもしれない。まずは「中途半端でもいい」と自分を許すことから始めよう。その一歩が、また明日への力になる。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。

未分類