気付けば話し相手は法務局の窓口だけになっていた

気付けば話し相手は法務局の窓口だけになっていた

誰とも話さない一日が増えてきた

最近ふと気づいたことがある。朝から晩まで、誰ともまともに会話していない日が増えている。電話は鳴らないし、相談の予約もない。パソコンの前に座って書類を作り、印刷して、法務局に提出して帰ってくるだけの一日。こんな毎日が続くと、自分が本当に社会とつながっているのか、不安になる時がある。たとえば、スーパーのレジで「袋いりますか?」と聞かれて、驚くほどほっとしたことがあった。ああ、人と話してるなって。そんな感覚が日常のなかで、じわじわと薄れてきている。

電話も来客もない静かな事務所

事務所にいても、電話が鳴らない日がざらにある。お客様の相談は基本的に予約制にしているから、飛び込みも少ない。唯一話すのは、事務員との業務的なやりとりだけ。しかも彼女は淡々と仕事をこなすタイプで、雑談なんてほとんどしない。だから午前中に一言も発していないこともある。昔はこんな静かな環境を理想だと思っていたけど、実際にそれが現実になると、想像以上に寂しい。

提出書類の確認だけのやりとり

法務局に行けば、窓口で数分は会話ができる。でもそれも「申請書類の添付書類が足りませんね」とか、「登記識別情報はお持ちですか?」といった定型的なやりとり。それでも最近は、その短いやりとりが妙にありがたい。名前を呼ばれて、「おはようございます」と返す。それだけで少しだけ自分が“誰か”であることを再確認できるような気がするのだ。

笑顔で対応してくれるだけで救われる

いつも対応してくれる法務局の女性職員さんが、優しい笑顔で迎えてくれる。その瞬間、なぜか肩の力が抜ける。特別な会話があるわけでもないのに、人の笑顔ってこんなに効くのかと実感する。帰り道、ちょっと心が軽くなっている自分に気づいて、なんだか情けないような、でも感謝のような気持ちが入り混じる。窓口の方は、こちらの事情なんてもちろん知らない。ただの一手続きを処理しているだけ。でもそのやりとりが、今の自分には大事な社会との接点になっている。

かつては人ともっと関わっていたはず

開業したてのころは、もっと忙しくて、もっといろんな人と関わっていた気がする。銀行、依頼者、他士業、役所…。電話も一日中鳴っていたし、毎晩のように誰かとやりとりしていた。それが10年、15年と続けるうちに、効率化が進み、オンラインも増え、無駄なやりとりが減った分、関係もどんどんドライになっていった。便利になった代償として、どこか孤立感が増していったように感じている。

独立したころは毎日バタバタしていた

今思えば、独立して最初の3年は、無我夢中だった。毎日が初めての連続で、緊張とプレッシャーのなか、失敗も多かった。だけど、周囲の人とよく話していた。失敗談を笑いに変えてくれる仲間もいたし、先輩司法書士に電話して相談することもあった。あの頃は人の言葉が励みになっていた。いつからだろう、そんな相談すらしなくなったのは。

打ち合わせもあったし、雑談もあった

昔は依頼者と面談する時間が長かった。依頼の内容以上に、その方の背景や家族構成、人生の話まで聴くことがあった。気が付けば雑談で1時間。効率は悪かったけれど、そこに“仕事をしている実感”があった。今はメールで済ませることが多くなり、面談の機会も減った。直接会って話す時間が短くなるほど、どこか物足りなさを感じる。

今は事務員とも最小限の会話

事務員も悪い人ではない。仕事はしっかりしているし、信頼している。でも、プライベートな話はしない。話しかけても「あ、はい」とそっけない返事が返ってくるだけの日もある。こちらもだんだん話しかけなくなってしまった。会話って、やっぱり双方向で成り立つものだと痛感する。誰かに話したいけど、話せない。そんな毎日が、じわじわと心を蝕んでいく。

孤独感を紛らわせようとした日々

このままではまずいと思って、いろいろ試してみた。SNSで司法書士仲間の投稿を読んでコメントしてみたり、地域の異業種交流会に顔を出したこともある。でも、どれも「虚しさ」が後に残った。人とつながるはずが、余計に孤独を感じてしまう。結局、自分が何を求めているのか、自分でもよくわからなくなっていった。

SNSも飲み会も虚しさが残る

SNSでは楽しそうな投稿が並ぶ。成功談や感謝の言葉、笑顔の写真。それを見て「自分は何してるんだろう」と落ち込んでしまうこともある。飲み会に行っても、当たり障りのない話ばかりで、本音を出せる相手がいない。気を遣って疲れて帰ってくる。一体、自分は誰と何を話したかったのか。そんな自問を繰り返すだけで、孤独は解消されなかった。

人と話すことのハードルが上がっていく

こうして人との関わりが減っていくと、いざ話そうと思っても何を話せばいいのかわからない。自分の話なんてつまらないだろう、そう思って口をつぐんでしまう。気づけば、話すことそのものに自信を失っていた。誰かとつながりたいのに、怖くなっている自分がいる。まるで、キャッチボールの相手がいないグラウンドにひとり立ち尽くしているような気分だ。

同業者との交流が心の支えになることも

それでも、たまに支部会や研修で顔を合わせる同業者との会話は、救いになる。「最近どうですか?」「いや〜暇ですよ」そんなたわいない一言のやりとりが、妙に安心する。お互いに大変さを知っているから、無理に取り繕わなくてもいい。ほんの数分の会話でも、心が少し軽くなる瞬間がある。

たまの支部の集まりでほっとする

年に何度かある支部の勉強会や懇親会では、少しだけ素の自分に戻れる気がする。誰もがそれなりに苦労していて、笑い飛ばしながらも、共通の苦しさを分かち合っているような空気がある。もちろん全員と気が合うわけではないけれど、「自分だけじゃない」と思えることは、予想以上に心の支えになる。

でもあまり弱音は吐けない空気もある

とはいえ、あまりに愚痴っぽくなってしまうと浮いてしまいそうで、適度な距離感は保っている。弱音を吐きすぎると「大丈夫かな、この人」と思われそうで、それがまた怖い。結局、ほんとうに言いたいことは飲み込んでしまう。気遣い合いながらの会話も、必要以上に疲れるときがある。でも、そういう場がまったくないよりは、ずっといい。

司法書士として人と向き合う意味を見つめ直す

司法書士の仕事は、書類だけを相手にしているように見えるかもしれない。でも実際は、その書類の向こうに人がいる。相続や離婚、会社の設立や借金整理——人生の節目に関わるからこそ、こちらの心構えも問われる。だからこそ、自分の心が荒れていると、うまくいかないことも多い。人と向き合う前に、自分自身とも向き合う必要があるのだと思う。

登記の手続きだけでなく人の人生と関わる

たとえば相続登記ひとつにしても、依頼者には複雑な感情がある。亡くなった親への想いや、兄弟との確執。表に出てこない想いを汲み取れるかどうかが、こちらの力量になる。その意味では、誰とも話さず過ごす日々が続くと、そうした感情の機微に鈍感になってしまう気がしてならない。だからこそ、もっと人と話したいと思うのだ。

だからこそ、自分の心のケアも必要だと感じる

忙しい毎日の中で、自分の心のケアを後回しにしがちだ。でも、人と関わる職業だからこそ、自分自身がすり減っていてはいけない。ときには誰かと話すだけでもいい。孤独を正直に受け入れて、「ちょっと寂しいな」と言える勇気を持つことも、大事なのかもしれない。それが、司法書士としての“やさしさ”につながる気がしている。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。