鍵は閉まっているのに心が休まらない
家の玄関の鍵を閉めると、安心するはずだった。外の世界と切り離された自分だけの空間に戻るという感覚。しかし最近は違う。鍵を閉めても、どこか気持ちが落ち着かない。デスクの上に積み上がる未処理の書類、依頼者からのLINE、役所からの電話がいつ鳴るかわからない恐怖。それらが玄関の外ではなく、自分の内側にこびりついている感覚がある。家の中でも常に「気を張っている」。誰に見られているわけでもないのに、スーツを脱いでも心がスーツのまま、そんな状態が続いている。
家に帰るたびに感じる得体の知れない疲れ
事務所からの帰り道、住宅街の明かりが一つひとつ灯っていくのを見ると、なぜか心が沈む。家庭を持っている人たちの生活が垣間見える気がして、自分だけが違う場所に取り残されているような、そんな感覚に襲われる。何もしていないのに疲れていて、誰とも話していないのにストレスが溜まっていて、自分の家に帰るのにどこか気が重い。そういう日が続くと、心の奥に重りがひとつずつ増えていく。
玄関の鍵を開けても安心できない夜
ある日、夜の9時すぎに帰宅して、鍵を開けて部屋に入った瞬間、何ともいえない虚無感に襲われた。エアコンの効いた静かな部屋に自分ひとり。誰もいないのに「ただいま」と言いそうになって、そのまま声がつまった。電気をつけても、テレビをつけても、音が心に届かない。心が開いていないからだろうか。鍵を開けたのは玄関だけで、自分の内側はまだ閉じたままだ。
自分だけが取り残されているような感覚
同期の司法書士たちは結婚したり、事務所を広げたりしている。SNSで流れてくる「ご報告」に胸がざわつく。自分も努力しているつもりだった。でも、誰かに認められるような結果が出せているわけでもない。お金は多少稼いでいるかもしれないけど、心はどうなんだろう。ふと鏡を見たら、笑っているつもりの顔が全然笑っていなかった。
忙しさは武器だったのか隠れ蓑だったのか
忙しくしていれば、余計なことを考えなくて済む。そんなふうに思って、依頼を断らず、休日も対応してきた。電話一本で予定が変わる生活。気づけば、忙しさのなかに「自分らしさ」を隠してしまっていた。武器だと思っていた仕事のスピードも、今となっては自分を守るための盾だったような気がしている。
毎日を埋め尽くす「やるべきことたち」
朝起きた瞬間から、今日やるべきことが頭の中に自動的に再生される。登記の確認、裁判所の提出書類、事務員への指示、依頼者への連絡……。一つ終えても、また次が出てくる。まるでベルトコンベアの上に乗せられているようで、立ち止まることすら許されない感覚。効率化しようと努力しても、気づけば新しい仕事が生まれている。
仕事があるから孤独を感じずに済んでいる?
ふと思う。もしこの忙しさがなかったら、もっと孤独に押しつぶされていたかもしれない。だから予定を埋める。だから「暇になったら怖い」と思ってしまう。でも、仕事に逃げることで心が満たされるわけじゃない。ただ誤魔化しているだけ。それがわかっていても、止まれない自分がいる。
心に鍵をかけた理由を思い出せない
昔はもっと素直だった。人に頼ることもできたし、悩みを話すこともできた。でも司法書士という肩書を背負うようになってから、弱音が言いづらくなった。「専門家なのに」「先生でしょ」と言われるたびに、心の鍵を一つずつ強く閉めてしまったのかもしれない。
昔の失敗に鍵をかけたはずなのに
新人の頃、登記でミスをして怒られたことがある。大した問題ではなかったが、自分にとっては大きな挫折だった。あのとき「もう失敗したくない」と思って、感情ごと鍵をかけた。それがいつの間にか、仕事だけでなく人付き合いにも影響している。笑顔も会話も、どこか表面的になってしまった。
誰にも話せなかった「司法書士のくせに」の声
「司法書士のくせに、そんなことも知らないの?」「それくらいで不安になるんですか?」──過去に言われた言葉が、いまだに胸に刺さっている。たった一言で、信用を失う怖さ。だから余計に完璧を装うようになった。でも、そんなふうに自分を守っていたら、誰も本当の自分には近づけなくなる。
心の鍵を開けるのは他人じゃなく自分かもしれない
ある夜、ふと自分に問いかけた。「本当はどうしたい?」答えはまだ出ないけど、少なくとも誰かの期待に応えるためだけに生きるのはもうやめようと思った。鍵はいつでも、自分の手の中にある。ただ、開ける勇気がなかっただけかもしれない。
立ち止まることでしか見えない景色もある
忙しさのなかで見失っていたものはたくさんある。趣味、友人、恋愛、そして自分自身。少し立ち止まって、自分の気持ちと向き合ってみる時間を持つことで、ほんの少しだけ景色が変わった気がした。仕事は大事。でも自分の人生はもっと大事。それを忘れてはいけない。
まずは鍵の存在に気づくところから
心に鍵をかけたことを認めること、それが第一歩かもしれない。気づかなければ、開けようとも思えないのだから。誰もが何かしらの鍵を持っている。自分だけじゃない。だから、自分に優しくなれる瞬間が、少しずつ増えていくと信じたい。
今を踏ん張るすべての人へ
もし今、何かに押しつぶされそうな気持ちでいるなら、少しだけ立ち止まってほしい。忙しさや期待の中で見失いかけた自分を、取り戻してほしい。心の鍵は、決して壊れたり消えたりしない。開けるのは、自分自身の手に委ねられている。
同じように鍵をかけたまま生きているあなたへ
ひとりじゃない。僕もそうだ。仕事を頑張っている人ほど、心の奥で静かに孤独を感じていることがある。それは決して弱さじゃない。むしろ、頑張っている証だ。だから無理に開けなくていい。ただ、心の鍵の存在を忘れないでいてほしい。
弱音も愚痴も、大人が吐いたっていい
「大人なんだから」「先生なんだから」そんな言葉に縛られなくてもいい。弱音を吐くのは、甘えではなく整理だ。愚痴をこぼすのは、逃げではなく息抜きだ。僕たちはロボットじゃない。人間らしく、時には鍵を外して、肩の力を抜ける場所があっていいと思う。