頑張ってるのに報われてる気がしない日

頑張ってるのに報われてる気がしない日

気づけば今日も時間に追われていた

朝、目覚ましの音で飛び起き、あわただしく朝食をかきこみ、事務所に向かう。そんな一日が、もう何年も続いています。時間に余裕があるわけでもなく、心に余裕があるわけでもない。ただ、毎日の仕事に追われて、気づけば夜。ふと時計を見て、「今日、自分は何をしてたんだろう」と思う日が増えてきました。頑張ってるのに、達成感もなければ、誰かに褒められることもない。ただ事務所の電気を消すときに、ため息をひとつ。そんな自分が報われているのかどうか、わからなくなる日があります。

朝から晩まで埋まるスケジュールに心がついていかない

登記の準備、相談の対応、電話連絡、書類確認…。予定表は常にギッシリ。事務員さんと手分けしてなんとか回してはいるけれど、正直、自分の中では“心ここにあらず”の状態が続いています。時間があるわけじゃないけれど、集中しているわけでもない。流れ作業のようにこなしていると、自分の存在すら空虚に思えてきます。たとえば、昼ごはんの味がまったく思い出せない日があって、「食べたよな?」って思わず確認するほど。こうなると、働いてるというより“働かされてる”感覚に近い。

タスクはこなせているのに、充実感がない理由

一応、やるべきことは終えてる。補正も最小限に抑えてるし、依頼者への対応も抜けはない。でも、それなのに満足感がないのはなぜなんだろうと考えると、“ありがとう”の一言が足りてないんじゃないかと気づきます。それを求めてやってるわけじゃないけれど、やっぱり人間って、何かしら報酬が欲しいんですよね。お金だけじゃなく、承認というか、認められる感覚が。昔、草野球でヒット打ったとき、仲間に「ナイスバッティング!」って言われたときの方が、今よりずっと嬉しかった気がする。

「やるべきこと」と「やりたいこと」のズレに気づいてしまった

司法書士になった当初は、もっと人の役に立ってる感覚がある仕事だと思っていました。でも実際は、書類と法律と締切に追われる毎日。それがこの仕事の本質だってわかってはいます。でも、どこかで「こうじゃなかった」という気持ちがあるんですよね。やりたいのは“助けること”だったはずなのに、やってるのは“回すこと”。このズレが、地味に心を削ってくる。だからたまに、「今、自分がやってることって、本当に意味があるのかな」と思ってしまうんです。

忙しいのに誰からも感謝されない気がする

朝から晩まで働いていても、「ありがとう」と言われることは案外少ないです。むしろ、「まだ終わってませんか?」とか「急ぎでお願いできますか?」のほうが多い。責任感が強い性格だからこそ、ちゃんとやりたい気持ちはある。でも、どこかで“自分だけが頑張っている”という被害妄想も芽生えてしまう。そんな自分が嫌だし、情けない。でも、感謝の言葉に飢えてしまうのは、誰かに「頑張ってるね」と言ってほしいからなのかもしれません。

「ありがとう」が聞こえない仕事の孤独さ

司法書士という仕事は、実は“感謝されにくい仕事”だと思います。問題が起きてないのが当たり前、登記が完了するのが当然、という前提で動いているから。何も起きなければ誰も気づかないし、うまくいったことすら評価されません。まるで“ノーミスの審判”のような存在。でも、だからこそ孤独感が募るんです。誰かに頼られてはいても、それが心に届かない。静かな事務所で書類を綴じながら、「何のためにやってるんだろう」と思う時間が増えた気がします。

事務員一人と静まり返った事務所でふと感じる虚しさ

うちの事務所は自分と事務員さんの二人きり。効率的ではあるけれど、にぎやかさとは無縁です。仕事が落ち着いた夕方、キーボードの音だけが響く中で、ふと虚しさが襲ってくるときがあります。たとえば、登記完了の報告メールを送り終えた後、椅子にもたれかかって天井を見上げる。何かを成し遂げたというより、「また終わっただけ」みたいな感覚。誰とも会話せずに一日が終わることもある。そんな日には、帰り道の車内でため息が止まらない。

人と比べるつもりはないけれど

「他人と比べても仕方ない」って頭では分かってる。でも、どうしても比べてしまうんです。SNSを開けば、昔の同級生が家族で旅行してる写真。結婚、マイホーム、子どもの成長報告。自分が一人でコンビニ弁当をつついてる姿との落差に、気づかないふりはできません。司法書士という立場上、“ちゃんとした人”に見られるけれど、実際の生活はお世辞にも充実してるとは言えない。だからこそ、「何のために働いてるんだっけ?」って、また思ってしまうんです。

昔の友人たちの生活が眩しく見える夜

夜、仕事終わりにスマホで友人の投稿を見て、心がざわつくことがあります。昔の野球部仲間が、子どもの運動会に参加している写真を上げていた日なんかは特に。グラウンドの土の匂いや声援の音まで思い出してしまって、「あぁ、あいつはちゃんと生きてるなぁ」としみじみしてしまった。自分はただ、仕事をこなしてるだけ。人間らしい時間を過ごせていないことに気づいてしまうと、一気に胸が重くなる。比べないようにしても、比べてしまう。それが人間の性なんでしょうね。

結婚して子どもがいるというだけで勝ち組に思えてしまう

世間の“普通の幸せ”が自分にとってのコンプレックスになっています。結婚して、家庭を持って、休日には家族サービス。そんな日常があるだけで、もう十分じゃないかと思ってしまう。こっちは平日も休日も関係なく働いていて、仕事が落ち着いたら落ち着いたで、急に孤独が押し寄せてくる。正直、嫉妬なのか羨望なのか、自分でもよく分かりません。ただ、「ああいう人生の方が良かったんじゃないか」と思うことは、年々増えている気がします。

本当に欲しかったのは羨ましがられる生活なのか

ただ、自問自答してみると「本当にそれが欲しかったのか?」という思いも浮かびます。人から羨ましがられるために働いているわけじゃないはず。司法書士を目指したのは、誰かの役に立ちたかったから。自己満足かもしれないけれど、誰かの“困った”を解決する仕事に魅力を感じてた。だけど、現実は思ったほどドラマチックじゃない。結局、他人の目を気にしてばかりで、自分の本音が見えなくなってるのかもしれません。

働く意味を見失いかけたときに

仕事に意味なんてなくていい。そう割り切れたら楽なのに、どこかで「意味が欲しい」と思ってしまう。昔は「誰かの役に立ちたい」という気持ちがモチベーションだったけど、最近は“義務感”で動いている気がして苦しくなります。そんなときは、過去の出来事を思い出すようにしています。あの人が嬉しそうだった顔、依頼者の安堵の表情。それだけで、もう少しだけ頑張ってみようと思えるんです。

“意味”なんてなくていいと思える日もある

毎日を完璧に生きる必要はない。意味のある日もあれば、何もない日もある。それが普通なんだと思えるようになったのは、年齢を重ねたからかもしれません。ときには「今日はただやり過ごした」でいい。無理に前向きにならなくても、立ち止まってもいい。ただ、心が完全に乾いてしまう前に、少しだけ“潤い”を思い出したい。たとえば、昔好きだった野球の動画を見返してみるとか。そんな小さなきっかけでも、息がしやすくなることがあります。

自分を責めないという選択肢

「もっと頑張らないと」「まだ足りない」と、自分にばかり厳しくしてきたけれど、最近は「これでよくやってるよな」と思うようにしています。頑張ってるのに報われてる気がしないなら、まずは自分自身が自分を認めてやるしかない。他人に評価されるのを待っていても、たぶん何も変わらないから。今日は無事に終わった、それだけでも立派だと。そう思えるようになるには、ちょっと時間がかかりましたけどね。

走り続けるだけじゃ、心は置いてけぼりになる

ペースを落とす勇気も必要だと感じます。ずっと走り続けていたら、どこかで転んでしまう。もしくは、ゴールを見失ったまま走り続けて、気づいたら誰もいなかった、なんてことにもなりかねない。だからこそ、たまには足を止めて深呼吸して、自分に問いかけてみる。「今日は、どうだった?」って。それが“働く意味”を思い出すための、小さなきっかけになる気がします。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。