孤独を隠すために仕事に追われるふりをしているだけかもしれない

孤独を隠すために仕事に追われるふりをしているだけかもしれない

孤独を隠すために仕事に追われるふりをしているだけかもしれない

ひとりで過ごす日曜日が怖くて仕事に逃げた

日曜日の朝、世間が休んでいる時間に私は事務所のパソコンを立ち上げていた。別に急ぎの案件があるわけでもない。ただ、家にひとりでいるのが耐えられなかった。テレビをつけても、なんとなく虚しさが増すだけで、笑い声も音楽も遠く感じてしまう。そういう時は、あえて「片付けておいたほうがいい仕事」に取りかかる。自分をごまかすための仕事。仕事をしていれば、自分には役割があるんだと信じられるから。

誰かに頼られる感覚だけが救いになる

司法書士という仕事は、誰かの手助けにはなっていると思う。登記が完了して「ありがとうございます」と言ってもらえる瞬間、ようやく自分の存在価値を確認できる。たった一言でも、「この仕事をやっていてよかった」と感じる。でも、それ以外の時間は圧倒的な孤独に襲われる。電話が鳴らない時間、書類だけと向き合っていると、ふと「自分って必要とされてるのかな」と不安になる。そのたびに、誰かの依頼にしがみつくようにスケジュールを詰めてしまう。

予定が埋まっていると安心するのはなぜか

カレンダーが空白なのが、なぜか怖い。何も予定がない日が続くと、まるで自分がこの世から必要とされていないかのような錯覚に陥る。だから、ほんの些細な用事でも予定として書き込む。郵便局に行くだけでも、スーパーに買い物に行くだけでも、「何かをしている自分」でいたいのだ。予定があると、誰かとつながっているような気になる。それがただの自作自演であっても。

空白のスケジュールに耐えられない心

一度だけ、1週間まったく予定のない時があった。正月明けの閑散期。そのとき、スケジュール帳を開くたびに心がギュッと締めつけられるような感じがした。外は雪で、誰とも連絡を取らず、テレビと天井ばかり眺めていた。自分の存在が、世界から完全に切り離されたような気分だった。そのとき初めて、「忙しいふりをしている自分」がいかに脆いものか、思い知らされた。

忙しさが心を麻痺させてくれるという錯覚

忙しさは、心を鈍くさせるにはちょうどいい麻酔だ。次から次へとタスクをこなしていれば、余計なことを考えずに済む。孤独も寂しさも不安も、「あとで考えよう」と棚上げできる。でもそれは本当に解決してるわけじゃない。ただ、後回しにしているだけ。結局、夜になってふと落ち着いた瞬間に、全部が一気に押し寄せてくる。

依頼が多いほど孤独を感じにくくなる不思議

1日に何件も相談が入ると、正直くたびれる。でも、そのぶん気が紛れる。依頼人と話すことで、自分の声が社会に届いている気がする。誰かにとって必要な人間なんだと、勘違いでも思える。依頼が重なると、逆に「忙しくて申し訳ないですね」と言うことが増えるけど、本当はありがたいと思ってる。ひとりで考え込む時間が減るというだけで、どれだけ気が楽になるか。

でも本当はただ誰かと話したいだけ

相談内容なんて正直どうでもいいと思ってしまうこともある。きちんと対応はする。でも、心のどこかでは「誰かと話せるだけでうれしい」と思っている自分がいる。無理に話を長引かせてしまったり、雑談に持ち込もうとしたりすることもある。寂しさが漏れ出てしまってるなと感じながらも止められない。それだけ、人と関わることに飢えているのかもしれない。

雑談すら贅沢な日常

事務員さんがたまに「このお菓子おいしかったですよ」と話しかけてくれる。その何気ない会話が、1日で一番の癒しになっている。雑談というのは、孤独を一時的に忘れさせてくれる魔法みたいなものだ。笑い合える相手がいるだけで、少しだけ心がやわらぐ。ほんの数分でも、救われたような気分になる。

元野球部だったあの頃は仲間がいた

高校時代、野球部に所属していた。毎日汗まみれになってボールを追いかけ、怒鳴られて、笑って、悔しがって、泣いて。あの頃は、孤独なんて感じたことがなかった。誰かと一緒に頑張るということが、当たり前だった。でも今は違う。デスクにひとり、パソコンに向かう日々。人と関わっているようで、実は誰ともつながっていないような感覚がずっとつきまとっている。

グラウンドにいた頃のような一体感が欲しい

あのときの仲間意識、一体感。何も言わなくても通じ合う空気。そういうものを、また感じたいと心から思う。でも、今の仕事ではなかなかそれが得られない。司法書士は個人プレーが多く、競争ではなく消耗になりがちだ。誰かと一緒に戦うというより、それぞれが孤独な戦場を歩いている感じだ。だからこそ、あの野球部の記憶がいまでも心の支えになっている。

それでも一匹狼を演じる今の自分

誰にも頼らず、ひとりでできることを増やす。それがプロだと思っていた。でも、本音では誰かと一緒にやりたい。愚痴を言い合って、バカ話をして、たまに喧嘩して、また笑う。そんな日々に戻れるなら、どれだけ楽だろう。でも、大人になるって、そういう関係を自分から遠ざけていくことなのかもしれない。一匹狼を演じるのは、強さじゃなくて、諦めだったのかもしれない。

いつか誰かの役に立っていたいという願い

結局のところ、自分の存在が誰かのためになっていると実感できることが、孤独をやわらげてくれる。それはお金でも成功でもなく、ほんの一言の「助かりました」だったりする。独り身だろうと、恋人がいなかろうと、そういう言葉をかけてもらえるだけで救われる。誰かの人生のほんの一部に、自分が関われていたら、それでいい。そんなふうに思える日が、いつかもっと増えてくれたらと思う。

独り身でも役割があることの尊さ

「誰にも必要とされていない」と感じる瞬間は、どんなに仕事があっても訪れる。でも、それはきっと錯覚だ。書類一枚、登記一件でも、誰かにとっては大切なもの。それを誠実に処理することで、自分も誰かにとって必要な存在になれる。それに気づけたとき、少しだけ孤独と距離が取れるような気がした。役割があるって、それだけで生きる意味になる。

孤独と向き合うことができる日は来るのか

忙しさでごまかしてきた孤独。でも、どこかでそれに真正面から向き合う日が来るのだと思う。逃げずに、自分の弱さを認めて、誰かに「寂しい」と言えるようになったら、それはひとつの成長かもしれない。今はまだ、忙しいふりで自分を守っている。でも、いつかその殻を破れる日が来たら。そのときの自分を、少しだけ信じてみたい。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。