肩書きは増えたのに話し相手は減っていった
司法書士として独立して十数年、登記も相続も成年後見も一通りこなせるようになった。おかげさまで、近隣の方々からの信頼も得られてきた。「立派ですね」「頼りになりますね」そんな言葉をもらうたびに、ありがたさと同時に、ふとした虚しさを感じる。ふと時計を見れば夜の10時を過ぎ、事務所に残っているのは自分ひとり。電話もLINEも鳴らない。昔は夜に誰かと他愛もない話をすることがあったけど、今は違う。肩書きが増えるたびに、自分をさらけ出せる相手が減っていくのを感じる。
忙しさの中で気づかないうちに人と距離ができていた
仕事に追われていたのは事実だ。特に開業して数年は、食っていくために必死だった。朝から夜まで予定を詰め込み、土日も電話に出た。誰かに誘われても「また今度」と断り続けていたら、気づけば誰からも誘われなくなっていた。疎遠になった友人に、久しぶりに連絡しようと思ったこともある。でも、「何の用?」と返されたらと思うと手が止まる。気づかぬうちに、自分から人とのつながりを手放していた。そんな自分が作った孤独なのに、文句ばかり言いたくなるのが情けない。
「立派ですね」と言われるほど自分の居場所がなくなる感覚
「司法書士なんてすごいじゃないですか」と言われることがある。でも、そのたびに、どう返せばいいかわからなくなる。本音では、「すごくなんかないですよ。毎日必死です」と言いたい。でも、そんなこと言える雰囲気ではない。肩書きがあるからこそ、弱音を吐いたらダメだと自分で勝手に思い込んでいるのかもしれない。だから余計に、本音を話せる場所がなくなる。居場所というのは物理的な空間ではなく、気持ちを置ける場所だと思う。その場所が、今の自分にはない気がしてならない。
元野球部の仲間にすら本音を言えなくなった日
高校時代の野球部仲間とのグループLINEがある。たまに「飲みに行こうぜ」と誘いが来るけど、仕事を理由に断ってばかりいた。ある日、「また仕事かよ、さすが先生だな」と冗談混じりに言われた一言に、心がチクリと痛んだ。それ以来、自分から発言するのをやめてしまった。彼らは悪くない。むしろ、気を遣ってくれているのかもしれない。でも、もう彼らの前でも素直に「しんどい」と言えなくなった。そういう自分が、正直いちばん面倒くさい存在だと思っている。
司法書士という看板の重さに押しつぶされそうになる
独立したころは、「先生」と呼ばれるのがくすぐったくて仕方なかった。でもいつからか、その呼び名が首に縄をかけられているように感じるようになった。間違えてはいけない。相談を受ける以上、弱さは見せてはいけない。そう思うあまり、自分を守る鎧ばかりが厚くなってしまった。気づけば、鎧の中の自分はボロボロなのに、それを誰にも見せられず、ただ笑っているだけの人間になっていた。
「先生」と呼ばれることのプレッシャーと違和感
「先生、ちょっと相談が…」と声をかけられると、一瞬身構えてしまうようになった。まるで、常に正解を出さなければならない存在として見られているようで、気が抜けない。信頼されているのはありがたい。でも、その「信頼」に応え続けることが、だんだん苦しくなってきた。誰だって間違うことはある。なのに「先生」にはそれが許されないような空気がある。その呼び名に、自分の素の姿がどんどん埋もれていく気がしてならない。
間違えてはいけないという恐怖が心を締めつける
登記ひとつとっても、間違いが許されない仕事だ。だからこそ、慎重に慎重を重ねて確認する。でも、人間だからミスをする可能性はゼロではない。以前、一度だけ住所変更の記載漏れをしてしまったことがある。そのときの冷や汗、胃の痛み、夜眠れなかった感覚は今でも鮮明に覚えている。その失敗をきっかけに、どんな簡単な仕事でも心が張りつめるようになった。プレッシャーが習慣になると、心の逃げ場がどんどんなくなっていく。
事務員にすら弱音を吐けない現実がある
ありがたいことに、うちの事務員さんはよく働いてくれる。正確で、よく気が利く。でも、そんな彼女の前で「ちょっと最近つらくてね」なんて言えるはずがない。自分が弱音を吐けば、不安にさせてしまうかもしれない。そう思うと、ますます自分を律してしまう。そうして、誰にも本音をこぼせないまま、一日が終わる。その繰り返しに慣れてしまうと、もはや誰かに甘える方法すらわからなくなる。
独身男性司法書士という肩書きの哀愁
45歳、独身。地方で司法書士をしていると、出会いなんてものはまずない。仕事ばかりしてきたツケだと思っている。誰かと暮らすことが面倒に思えることもあるが、たまにスーパーで夫婦連れを見ると、なんとも言えない寂しさがこみ上げる。家に帰っても話し相手はいない。テレビの音と、電子レンジの「チン」という音だけが、妙に大きく感じる夜がある。
女性にモテないというより会話が続かない
モテないというより、話題がないのだと思う。休みも少ないし、趣味と言えるものもない。元野球部とはいえ、最近はキャッチボールすらしていない。女性と話しても、「お仕事お忙しそうですね」で会話が終わってしまう。仕事の話をしても、堅苦しくなってしまうだけ。相手の目が泳いでいくのを見るたびに、「ああ、またつまらない男だと思われたんだろうな」と自己嫌悪に陥る。こうして、人との距離をまた自分で遠ざけてしまう。
「仕事が忙しい」が言い訳になってしまう夜
仕事が忙しいのは事実。でも、それを理由に人間関係を後回しにしてきたのも事実だ。飲みに誘われても、「すみません、明日早いので」と断ってきた。そのたびに、何かを失っている気がしていた。でも忙しさを言い訳にすれば、自分の心の弱さに向き合わなくて済む。そんなふうに自分をごまかしてきた夜が、何度もあった。気づけば、部屋の静けさが当たり前になっていた。
それでも誰かの役に立っているという微かな救い
愚痴ばかりこぼしているが、それでも司法書士という仕事を嫌いになったことはない。誰かの相続を無事に終えたとき、認知症の親御さんの後見人として安心してもらえたとき、「ありがとう」と言われると、自分の存在が認められたような気がする。小さな救いだが、それがあるからまた明日も頑張れる。肩書きではなく、人として誰かに役立てたと思える瞬間だけが、今の自分を支えている。
「ありがとう」と言われる瞬間にだけ救われる
先日、相続登記を終えたお客様から小さな手紙をもらった。「父のことで悩んでいましたが、先生のおかげで安心できました」と書かれていた。それだけのことなのに、涙が出そうになった。自分のやっていることに意味はあるのかと疑っていたときだったから、余計に響いた。報酬や報奨よりも、こうしたひと言が自分の心を癒やしてくれる。肩書きではなく、人として見てもらえた気がして、久しぶりに心が軽くなった。
報酬よりも気持ちに響く一言の方が価値がある
登記の報酬は高くはない。けれど、たまに「本当に助かりました」と頭を下げられると、その価値は計り知れない。逆に、高額な報酬をもらっても、感謝の言葉がないと虚しさばかりが残る。司法書士という仕事は、心の報酬がないと続けられない気がする。そう考えると、自分が求めているのは金銭じゃなく、存在の肯定なのかもしれない。
肩書きを脱いだ自分に向き合う時間を作る
この頃、少しずつだけど、自分の時間を意識して作るようになった。肩書きに押しつぶされないように、ただの「自分」として過ごせる時間が必要だと気づいたからだ。誰かに頼られるためではなく、自分を癒やすために時間を使う。そんな当たり前のことが、こんなにも難しかったとは思わなかった。
休日に感じる空虚さが教えてくれたこと
久しぶりに丸一日休みをとった日のこと。何をしていいのかわからず、結局スマホをいじって一日が終わった。「こんなに自由なのに、なんでつまらないんだろう」と思った。その空虚さが、自分がいかに仕事で自分を埋めていたかを教えてくれた。肩書きがないと、自分が誰かすらわからなくなっていたのかもしれない。休日の静けさが、それを気づかせてくれた。
「人として生きる」ことを考え直したい
これからも司法書士であり続けるだろう。でも、それだけじゃなく、「人として」誰かと向き合う時間も大切にしたい。肩書きがあるからこそ、それを一度脱いでみる勇気が必要なのかもしれない。本当の意味での人間関係、本当の意味での生き方を見つめ直す。遅すぎるかもしれないけれど、今からでも始めたい。そう思えるようになっただけでも、少しだけ前に進めた気がしている。