「信頼してます」の重みを、正直に語ってみる
「先生、信頼してますから」。この言葉、ありがたいはずなのに、正直ちょっと苦しいときがあります。司法書士として仕事をしていると、信頼されるのは当たり前のように思われがち。でもその言葉の裏にある期待や依存が、じわじわとこちらの心を追い詰めてくることもあります。最近では、「信頼してます」と言われた瞬間に、「それに応えられるかな…」という不安が先に立ってしまうようになってしまいました。
嬉しいはずの言葉が、時に胸に刺さる
「信頼してますよ」と言われると、やっぱり嬉しいです。でも、その直後にくる「もしミスしたら、この人の信頼を裏切ることになる」という思考が、胸に重くのしかかります。仕事で疲れている時なんかは、その一言がプレッシャーになって寝つけなくなる夜もあります。信頼を裏切らないように…と自分を追い込む感覚、共感してくれる方もいるんじゃないでしょうか。
信頼=期待=責任のプレッシャー
信頼されるということは、期待されているということ。そしてその期待には、こちらが何かしら応える義務があるように感じてしまいます。特に司法書士は、責任の重い仕事。相手の人生がかかっていると思えば思うほど、そのプレッシャーは強くなっていきます。嬉しいはずの言葉が、責任という鎖に変わっていく…そんな感覚、ありませんか?
司法書士という仕事の“期待されやすさ”
この職業って、「きちんとしていて当たり前」って思われることが多いですよね。登記、相続、裁判書類作成…どれも失敗が許されないものばかり。でも、どんなに気をつけていても人間ですから、完璧にはできません。それなのに、社会や依頼者の期待はどんどん積み重なっていく。それが「信頼」という言葉で表現されるわけです。
「プロなら当然」と思われる日常
たとえば、ある依頼者から「さすがプロですね、間違いがない」と言われたことがあります。そのときは「いや、たまたまですよ」と笑いましたが、心の中では「次、間違えられないな…」とビクビクしていました。プロとして信頼されるのは名誉だけど、「間違えたら終わり」という恐怖がついてくるのも事実です。
ちょっとのミスも信頼を揺るがす世界
書類の数字を一つ間違えただけで、法務局で突き返される。そんなことがあると、自分への信頼がガタッと揺らぐのを感じます。しかも依頼者の目の前でそれが起きると、冷や汗が止まりません。信頼って築くのに時間がかかるのに、崩れるのは一瞬なんですよね…。
依頼人の「人生」がこっちに乗ってくる怖さ
相続登記一つにしても、「これが終わらないと家を売れない」とか、「借金の整理が進まない」とか。依頼者の人生の一部が、こちらの処理能力にかかっていることを考えると、正直怖いです。そのプレッシャーを「信頼してますよ」の一言で丸ごと預けられると、「勘弁してよ…」と思うこともあります。
事務員にすら気を遣ってしまう自分
うちの事務員さん、とても優秀なんです。でも、彼女に対しても「信頼してるよ」と言ってしまったが最後、こちらが変に気を遣ってしまう。「信頼されてるから頑張らなきゃ」と思ってくれてるのは伝わるけど、逆にそれがプレッシャーになってないか、気になって仕方がないんです。信頼って、思ったより扱いが難しい言葉ですね。
「応えなきゃ」が心を削る
信頼されるのは嬉しい。でも「応えなきゃ」という気持ちが強くなりすぎると、心が擦り減っていくんです。相手は何気なく言った言葉かもしれませんが、こちらは「期待に応える義務」を感じてしまう。そういう性格なんでしょうね。真面目な人ほど、この罠にハマりがちです。
完璧主義の落とし穴にハマる
私自身、完璧主義の傾向があるので、「信頼してるよ」と言われると「じゃあ絶対にミスできない」と思い込んでしまいます。そしてその思いが強くなればなるほど、小さなミスをして自分を責めるという悪循環に陥っていきます。信頼される=完璧でなければならない、という勘違いが自分を苦しめるんですよね。
誰にも相談できない「責任感の孤独」
司法書士って、基本的に一人で仕事することが多い職種。だから余計に、「こんなことで弱音吐いたらダメだ」と思ってしまいます。ミスの恐怖、不安、焦り…全部抱えて、誰にも言えない。これは本当にキツいです。「信頼されている」からこそ、弱音を見せられないという矛盾に苦しみます。
「任せたよ」の言葉が苦しいときもある
「全部お任せしますね」って言われると、一瞬嬉しい。でも、正直に言うと「えっ、そんなに丸投げしないで…」って思うこともあります。こっちのプレッシャーはどうなるの?と。全部任せられても、完璧に処理できるとは限らない。そういう不安を、もっと口に出してもいいのかもしれません。
信頼に応えるって、どういうことなのか
そもそも「信頼に応える」って、どういう状態なんでしょうか?ミスしないこと?迅速な対応?笑顔で説明?正解がないからこそ、「応えられているか不安」という感情が生まれてくるのかもしれません。相手が満足してくれていても、自分が納得できていないと意味がないと感じてしまうのも厄介です。
自分が背負っている「期待」の正体
ふと立ち止まって考えてみると、「信頼に応えなきゃ」と思っているのは、自分が勝手に背負っている期待かもしれません。相手はそこまで思っていない可能性だってある。でも、「そうかもしれない」と思いつつも、そう割り切れないのが人間なんですよね。
応えられているかどうかの基準が曖昧
「うまくやれてるかな?」「満足してくれてるかな?」と不安になるのは、評価の基準が明確じゃないから。司法書士の仕事って、数値化できる評価が少ないので、常に手探りです。誰かに「これでいいよ」と言ってもらえれば少しは楽になるのに…と思うこと、正直何度もあります。
それでも、逃げずにやっていくために
それでも、逃げずにやっていくしかない。司法書士として、信頼されることを避けるわけにはいかないですから。だったら、信頼という言葉の重みとうまく付き合っていくしかないのかもしれません。少しずつでも、自分なりのやり方を見つけていくしかないんです。
完璧じゃなくていいと認める覚悟
「信頼されているから完璧でなきゃいけない」という考えを、少し緩めることが必要だと思います。失敗してもリカバリーすればいいし、全部一人で抱えなくてもいい。信頼されているからこそ、誠実に向き合えば、それで十分なのかもしれません。
「信頼に応える」ことの再定義
応えるというのは、常に完璧な結果を出すことではなく、誠実に向き合い、ミスがあれば認めて修正する姿勢を持つことなのかもしれません。信頼というのは、最終的に「人として信用できるか」に集約されるのではないでしょうか。
少しだけ肩の力を抜く工夫
コーヒーを飲んで深呼吸する、事務員さんとたわいない話をする、それだけでも違います。「信頼に応えなきゃ」と肩に力が入りすぎている時ほど、意識的に力を抜く瞬間を作るようにしています。小さな工夫が、意外と心を守ってくれます。
愚痴を吐ける場所のありがたさ
こうして文章に書いているのも、ある種の「愚痴吐き」かもしれません。でも、こういう場があることで、「自分だけじゃない」と思えるようになる。司法書士だって人間。信頼される側にも、不安や悩みがある。それを口にできる場所を持つこと、すごく大事だと感じています。