月に癒された一瞬の静寂
その日は朝から何かとバタバタしていた。登記の修正、銀行とのやり取り、依頼者からの急な連絡。45歳にもなって、何をそんなに追われるように働いているのか、自分でもわからなくなるときがある。帰り道、ヘトヘトの体を引きずるように駅からの道を歩いていたとき、ふと上を見上げた。そこにいたのが、まんまるの月だった。言葉にするのが難しいけれど、ただ、ほんの少しだけ心がほどけた気がした。
慌ただしい一日の終わりに見上げた空
事務所を出る頃には、すっかり夜になっていた。何件も依頼をこなした後で、事務員もすでに帰宅し、誰もいない静かなオフィスをあとにするのが最近のルーティン。イヤホンから流れるラジオ番組も、なんだか今日は耳に入ってこない。信号で立ち止まった瞬間、無意識に空を見上げた。雲ひとつない夜空に、ぽっかり浮かぶ月があった。特別なことではないのに、それがやけに印象に残ったのは、心が疲れていたからかもしれない。
残業帰りの交差点にて
交差点の向こうにはコンビニが光っていた。よくある光景だ。でもその日、交差点で信号待ちをしていたほんの数十秒が、やけに長く感じた。仕事に追われる日々ではあるけれど、こうして立ち止まる時間も悪くない。むしろ、その数十秒こそが、自分にとって貴重な「ひと息」だったのかもしれない。
立ち止まった理由はただの信号待ちだった
別にロマンチックな気分だったわけじゃない。ただ、信号が赤だった。それだけだ。でも、そこでふと顔を上げて、月を見た。そんな当たり前の動作が、自分の心に作用することがあるなんて思っていなかった。司法書士なんて仕事をしていると、つい理屈や効率で物事を考えがちになるけれど、こういう瞬間が、まだ感情が残ってるんだなと感じさせてくれる。
「ああ、今日は月が綺麗だな」と思えた夜
その言葉、昔どこかの小説で見た気がする。「今日は月が綺麗ですね」って。正直、そんな洒落たセリフとは無縁の人生だけれど、この夜だけは少しだけその言葉が頭をよぎった。依頼者とのやり取りで疲れ果てて、報酬にも見合わない作業ばかり。それでも、月を見て「綺麗だな」と感じられる感性が、まだ自分の中に残っていることが救いだった。
心がささくれ立っていたはずなのに
その日は特に理不尽な連絡が多かった。「急ぎで登記してくれ」とか、「他所の事務所ではこんなに高くない」とか。そういう話を聞くたびに、自分の価値が否定されているような気がして、どんどん気持ちがすり減っていく。でも月は、そんな自分にも文句を言わない。勝手に浮かんで、勝手に照らして、勝手に癒してくれる。ありがたい存在だ。
月の明るさがなぜかまぶしく感じた
月って、太陽と違って柔らかい光なのに、この夜はやけにまぶしく感じた。たぶん、目が疲れていたせいかもしれないけれど、それ以上に、心の目が敏感になっていたのかもしれない。いつもなら見過ごしていたかもしれない光が、心の奥にスッと染み込んできた感覚があった。あの夜の月は、なんだか自分のために浮かんでいたようにすら思えた。
忙しさに追われて見失うもの
司法書士という仕事は、地味で細かい確認が延々と続く。そのうえ、急な依頼や書類の不備も多く、どれだけ段取りしていても予定通りにいかない日ばかりだ。そんな毎日に埋もれていると、自分が何のために働いているのか分からなくなるときがある。昔は「人の役に立ちたい」なんて思ってた。でも今は…生活のため?義務感?もう正直、分からない。
数字と期限ばかりに囲まれる日常
今月の売上、登記完了予定日、請求書の発行タイミング。すべてが「いつまでに」「いくらで」という世界で回っている。言ってしまえば、そこに人間味はあまりない。効率的にさばくことが正義。そんな日々の中で、たった数秒、空を見上げて感じた月の光。それがどれほど心に響いたか。人間って、こんなにも単純で、でもだからこそ救われるんだと思う。
司法書士としての責任とプレッシャー
ちょっとした記載ミスや日付の誤りが、登記全体を台無しにしてしまう。そんなプレッシャーの中で日々仕事をしている。だからこそ、誰にも迷惑をかけずに月を見る時間は、唯一自分のためだけのものなのかもしれない。失敗が許されない現場だからこそ、無条件で許される「空」がこんなにも尊い。
誰も褒めてくれない仕事でも手は抜けない
登記が無事に完了しても、依頼者から感謝の言葉をもらえることは少ない。むしろ「当然でしょ」といった態度に心が折れそうになることの方が多い。それでもやらなきゃいけない。性格的に、不備をそのままにできない。自分の中の「元野球部気質」なのか、やるからにはきっちり仕上げたいと思ってしまう。誰も見ていなくても、月だけは見ていてくれる気がした。
それでも前に進む理由
もう辞めたいと思ったこともある。何度もある。でも辞めない。たぶん、それは小さな支えがあるから。例えば、毎朝早く出勤してくれて、黙々と書類を整理してくれる事務員さん。言葉数は多くないけれど、その存在があるだけで、今日もやってみるかという気持ちになる。月に癒されるような瞬間と同じように、日常の中にある小さな光が、僕を支えてくれている。
支えてくれるたった一人の事務員
彼女は特別なスキルがあるわけじゃない。でも、僕の言葉足らずな指示でもちゃんとくみ取ってくれる。そして、たまに缶コーヒーを机に置いてくれる。「ブラックでしたよね?」って。それだけで十分だ。誰かに感謝されるより、こうして同じ空気を吸って、同じ空間で頑張ってくれる人がいるという事実が、何よりの支えだと思っている。
小さな「お疲れさま」が救いになる
一日の終わりに、「今日は大変でしたね」と言われるだけで、気持ちが軽くなる。たとえ月並みな言葉でも、それを言ってくれる人がいるかどうかで、その日が救われるかどうかが決まる。月の光と同じで、言葉もまた、誰かの心に届く灯りになることがある。そう信じたい。
一人じゃないと気づく夜もある
独身で、女にもモテなくて、寂しい人生だなと思うことは多い。でも、たった一人でも味方がいれば、生きていけるんだなと最近ようやく思えてきた。帰り道、ふと見上げた月が教えてくれたのは、誰もがひとりじゃないということかもしれない。たまには空を見よう。月は、黙って寄り添ってくれる。