他人の未来を支えてきたはずなのに自分の未来が見えなくなった日

他人の未来を支えてきたはずなのに自分の未来が見えなくなった日

他人の未来を支える日々が続くと自分のことがわからなくなる

司法書士という仕事は、人の人生の大きな節目に関わることが多い。登記、相続、成年後見――どれも人生の転換点だ。私はそれを淡々と処理する。依頼者にとっては初めての不安な出来事であっても、私にとっては日常の業務。だからこそ、気を抜けば「自分」がどこかへ置き去りにされてしまう。誰かの未来を支えるという名のもとに、自分の未来のことはいつの間にか後回しにされていくのだ。

気づけばいつも他人の人生の転機に立ち会っている

毎日のように誰かの「これから」に関わっている。たとえば相続登記では、家族の死という現実に向き合っている人の手続きを支える。会社設立では、新しい夢に向かって踏み出す人をサポートする。その一つひとつは尊い仕事であり、やりがいもある。だけど、気づいてしまう。「あれ、自分の人生って、どこに向かってるんだっけ?」と。

誰かの幸せのサポートが仕事の本質

司法書士の仕事って、直接的に「ありがとう」と言われる場面は案外少ない。でも、うまくいったときの安堵や、感謝の表情にはやっぱり救われる。それが仕事のやりがいだし、社会の役に立っている実感になる。でも、そこで満たされるのは“人として”の部分であって、“自分の人生”とはまた違う話だ。結局、自分の幸せをどう描いていたかなんて、思い出せないままになってしまう。

でもそこに自分の感情を置く余地がなかった

「どうしてここに自分の気持ちを挟んじゃいけないんだろう」って思うときもある。たとえば、家族を亡くした依頼者の涙を見て、こっちまで泣きそうになることもある。でも、感情を乗せすぎると事務が滞る。冷静でいることが正解。でも、そうやって感情を削って削って、いつの間にか自分の感覚が鈍くなっている。心を置き去りにしている感覚だ。

終わったあとに残るのは疲労感と空虚感

仕事を終えたあと、充実感よりも虚しさが先に来る日がある。書類はきっちり処理したし、依頼者も満足してくれた。でも、事務所を出て帰る道でふと立ち止まる。「これをあと何年繰り返すんだろう」そんなことを考える。たぶん、誰かの未来を支える仕事は誇りだ。でも、自分の未来がぽっかり抜けている気がしてならない。

達成感より先に来るため息

やりきった感が出るのは、たまにだ。むしろ「今日もなんとか終わったな」という疲労の方が大きい。ため息ばかりついて、背中を丸めて事務所を出る。これは年齢のせいだろうか、それとも心がすり減っているのか。誰にも聞けないし、答えも出ない。帰っても一人。何かを語る相手もいないまま、また次の日が始まっていく。

心から祝福できるのに何かが足りない

たとえば、会社設立の手続きを終えて「これからが勝負です」と笑顔で去る依頼者を見ると、本当に応援したいと思う。でも、自分が「勝負する立場」になることは、もうないのかもしれないと思ってしまう。夢を形にするサポートはできても、自分が夢を持つ側じゃなくなっている。それが少しだけ、寂しい。

自分の人生に名前がないような感覚

書類には毎日名前を書く。登記名義人、相続人、代表取締役、成年後見人。でも、そのどれも自分の名前じゃない。他人の名前ばかり打ち込み続けて、ふと「最近、自分の名前って声に出したっけ?」と考える。そんなふうにして、自分という存在が薄れていくような感覚に襲われる。

書類に名前は書くけど自分の名前は呼ばれない

役所でも銀行でも「司法書士の○○です」と名乗るけど、それは「肩書き」としての名前だ。プライベートで名前を呼ばれることはほとんどない。家でも職場でも“個人”としての自分の存在感が希薄になっていく。「あれ、自分って誰だっけ」なんて思う瞬間、冗談じゃなく本当にある。

人の名前ばかり記録する日常

一日中、誰かの名前を入力して、登記簿に載せる。公正証書に記載する。印鑑証明を添付する。それが仕事。でも、そこには自分の人生の記録は何一つ残らない。記録に残らない毎日を過ごしているような気持ちになる。名もなき記録係。それが司法書士の裏の顔なのかもしれない。

自分の存在を実感する瞬間が少ない

たまに依頼者からお菓子をもらうと、妙にうれしい。それはたぶん、仕事への評価というより、「存在を認めてもらえた」から。名前を呼ばれるとか、ちょっとした会話をされるとか、そういう当たり前のやりとりが、自分の存在を保ってくれている。だけど、それすらも数えるほどしかない。

それでも明日も誰かを支えるんだろうな

こんなことを考えても、結局、明日も事務所に行って、誰かの手続きをするんだと思う。自分の未来が空白に見えても、それでも止まらずにやっていくのは、「誰かのためになっている」という感覚が、かすかな光になってくれているからだ。たとえ弱々しくても、その光がある限り、たぶん私は歩くんだろうな。

愚痴を言いながらもやめない理由

正直、何度も「やめようかな」と思った。でも、そのたびに思い出すのは、依頼者が「助かりました」と言ってくれたときの顔だ。あの一言に、どれだけ救われているか。だからまた愚痴を言いながら、仕事に向かってしまう。人を支えるって、結局、自分を支えることにもなってるのかもしれない。

人の役に立てることは確かに嬉しい

どんなにしんどくても、誰かに「ありがとうございます」と言われたら、その日一日はなんとかなる。疲れていても、眠くても、ミスして落ち込んでも、その言葉一つで立ち直れる。司法書士という仕事は、見返りが少ないようでいて、実はちゃんと自分の中に残るものがあるのかもしれない。

未来が空白でも歩き続ける意味を探して

未来に希望があるかどうかなんて、今はわからない。もしかしたら、何も変わらない日々が続くだけかもしれない。でも、それでも誰かの未来を支えることで、自分の未来の形も少しずつできていくと信じたい。今は見えなくても、その積み重ねが自分をつくってくれる。そんなふうに思える日は、きっとまた来る。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。