仕事はあるのに心が空っぽな日々

仕事はあるのに心が空っぽな日々

朝起きても気持ちが動かない日がある

司法書士という仕事は、毎日やるべきことが明確だ。登記の書類、裁判所への申請、顧客とのやりとり。全部こなしているはずなのに、ある朝、ふと目が覚めても心がピクリとも動かない。コーヒーの香りすら感じず、シャワーの湯温にさえ反応できない。ああ、また始まったなと思う。野球部だった頃、朝練前のあのしんどさとは別の、もっと深い“重さ”を感じる。体は動く。けれど気持ちは置いてきぼりだ。

やることは山積みだけど、心がついてこない

机の上には依頼者からの資料が積まれている。メールには新しい相談、法務局からの返答もある。対応しなければならないことばかりだし、それは分かっている。でも、手が止まる。誰に責められてるわけでもないのに、どこかで「やらなきゃ」の声が反響するばかりで、自分の意思で仕事している感覚が薄れていく。体は動いても、心が空っぽ。そんな状態で電話に出ると、妙に冷たい声になってしまう。

忙しさに埋もれて見失ったもの

昔はね、「やりがい」って言葉が好きだった。登記を無事終えたとき、相続の相談で「助かりました」と言われたとき、自分は役に立ってるって実感があった。でも今は、達成感よりも、「今日もこなせたか」の確認作業になってる気がする。忙しいことが誇りだった時期もある。でも、忙しさの中に何かを置き忘れてしまったような感じがして、心にぽっかりと穴が空いてしまった。

仕事が回ってることと自分が満たされることは別問題

事務員さんも頑張ってくれているし、事務所は一応ちゃんと機能している。でも、自分がその中心にいるはずなのに、満たされていない。不思議だ。仕事が順調なら、気持ちも安定するはずじゃないのか。いや、きっと「回すこと」ばかりに頭がいって、「感じること」を放棄してきたのかもしれない。満たされるってのは、数字じゃない。日々の中で、ちょっとした手応えをちゃんと受け取れるかどうかだ。

依頼は来るけど嬉しくない理由

電話が鳴るたびに、反射的に「また何かトラブルか?」と思ってしまう。本来なら仕事があることはありがたい。けれど、心が荒れているときには、その「ありがたさ」が苦痛に変わる。別に依頼者が悪いわけじゃない。ただ、自分の中に余裕がなくて、何を受けても“重し”のように感じてしまう。以前は、ひとつひとつ丁寧に向き合っていたはずなのに、最近は心のフィルターがうまく働かない。

「ありがたい」はずの依頼がプレッシャーになる瞬間

先日、登記の件で新規の問い合わせがあった。電話口の声は丁寧で、人柄も悪くなさそうだった。でも、正直「面倒だな」と思ってしまった。その瞬間の自分に嫌気が差した。依頼を断るほどの理由もない。だけど引き受けると、また自分の時間がなくなる。そんなふうに“仕事をこなす自分”ばかりが前に出て、“心を込めて対応する自分”が後ろに引っ込んでしまったような気がした。

感謝されても虚しさが消えない

数日前、ある案件が終わったとき、依頼者の方がとても丁寧に「本当に助かりました」と頭を下げてくれた。うれしいはずなのに、なぜか心は動かなかった。まるで録画を見ているような、他人事のような感覚。「この人は感謝してる。でも、俺は空っぽだな」と思ってしまった。昔だったら、その一言で何日かはやる気が出たのに。今の自分は、感謝を受け取る器すら壊れてしまったのかもしれない。

自分の感情を置き去りにして仕事していないか

ずっと「ちゃんとしなきゃ」と思ってやってきた。仕事を丁寧に、依頼者に誠実に。間違ってはいない。でも、それと引き換えに、自分の気持ちを無視してきたような気もする。疲れたとか、怖いとか、やりたくないとか。そういう感情を押し殺していたら、やがて何も感じなくなった。機械のように仕事をすることはできるけれど、人間として何かが失われていっている。それが一番怖い。

それでも辞めずに続けている理由

もう辞めようかなと思ったことも何度もある。でも、次の日にはまた事務所に来て、デスクに座っている自分がいる。たぶん、諦められないんだと思う。この仕事を。どこかで「まだやれる」と信じている部分があるのかもしれないし、単に責任感だけで動いているのかもしれない。でも、なんだかんだで今日もやってる。心が空っぽでも、手が動くかぎりは、きっと自分はここにいるんだと思う。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。