心を無にして補正と向き合う日々

心を無にして補正と向き合う日々

補正作業が積もるときに考えること

補正という言葉には、なぜこんなにも重みがあるのだろう。元々は自分のミスが原因であれ、相手の指示が曖昧だったにせよ、結局はこちらが直すしかない。机の上には付箋と赤ペン、そして訂正済みの登記申請書類が山積みだ。「あれ?前にもこれ、同じ指摘を受けた気がするな」と自分に対して小さなため息をつきながら、一文字一文字見直していく。誤字脱字だけじゃない。言葉の選び方、記載順、印影の濃さまで気を使う。誰のためにやってるのか分からなくなる瞬間がある。でも、やらなきゃ、明日も回らない。

気がつけば今日も朝から補正ばかり

朝、事務所に来てまずやることが補正対応。メールを開けば、法務局からの連絡が数件。開けるたびに胃がキュッとなる。補正理由を確認して、過去の資料を引っ張り出して、原因を探す。事務員が淹れてくれたコーヒーが冷めていくのを横目に、モニターとにらめっこ。結局、午前中が丸ごと補正で潰れる日も珍しくない。昔は、こんな細かいことに一喜一憂していた自分を「まだ青かったな」と思えるが、今は青くなる余裕すらない。とにかく、終わらせないと。次の仕事が待っているのだ。

自分のクセを直す難しさ

自分の書類のクセというのは、なかなか自分では気づかないものだ。たとえば、私は「記載例通りにやったつもり」が多すぎて、微妙にズレた表現をしがちだ。しかも、クセは繰り返す。何度も同じ補正を受けてようやく「あ、これが自分のパターンか」と気づく。だが気づいたからといって、すぐ直せるものでもないのがまたつらい。野球部時代も、バットの構えがどうしても直らなかった。結局、「型にハマる努力」をし続けるしかないのかもしれない。

他人の意図を正確に読み取る訓練

補正の指摘って、実はけっこう曖昧だったりする。「適切な記載に修正してください」と言われても、どの程度を求めているのか明記されていないことが多い。これは、相手の「意図を読む」訓練でもある。元号の表記なのか、住所の番地の順番か、それとも用紙の指定か。間違えると二度手間、三度手間になる。誰が悪いって話でもない。ただ、こっちの読みが浅かった、それだけで自分の手が止まる。そういうときは、「これは謎解きだ」と割り切るしかない。

心を無にするという技術

怒ったり、悩んだりしていては仕事が進まない。補正が来ても、何も感じずに淡々と作業に移る。これはもう、ひとつのスキルだと割り切っている。私はそれを「心を無にする」と呼んでいる。補正のメールを見ても、感情の起伏を抑え、ただ「処理すべき案件」として眺める。あくまで“作業”に徹する。文句を言っても、グチをこぼしても、補正が消えるわけではないからだ。

意識すればするほど空回る

「絶対に補正を出さないように」と意識すればするほど、変に気負ってしまう。些細な表現に悩んだり、細かすぎる修正に時間をかけすぎたりして、かえって効率が落ちる。まるで打席で「打たなきゃ」と思い詰めて空振り三振するみたいなものだ。自然体が一番と分かっていても、怖さが勝つ。だから、私は最近、「補正が来るのは当然」と思うようにしている。その方が気が楽なのだ。

感情を挟まないと決めたら少し楽になる

感情を込めすぎると、自分を責めたり、他人を責めたり、いずれにしても疲れる。そこで私は「感情はオフ」と決めている。仕事中に腹が立ったら、腹が立ってる自分に気づく。でも、感情に引きずられない。ミスをしたときも、落ち込まずに「はい次」。心をフラットに保つことで、冷静な判断ができるようになった。これ、言うのは簡単だけど、実行はなかなか難しい。

音楽もラジオも聞かずに机に向かう理由

昔は、ラジオや音楽を聞きながら仕事をしていた。だが今は無音が一番落ち着く。というのも、情報が多すぎると、思考がぶれるのだ。補正は細かい作業の連続だから、集中力が命。周囲の音を遮断して、ひたすら無心で打ち込む。誰にも話しかけられない時間がありがたくなるなんて、若い頃は思いもしなかった。静寂こそが、心を整える唯一の手段なのかもしれない。

補正は誰のためのものか

書類の補正をしていると、「これは誰のためにやっているのか」とふと思う。最終的には依頼人のため。しかし、依頼人はこの作業を知らないし、評価されることもない。だからこそ、自己満足や達成感にすらなりづらい。自己肯定感が下がる瞬間だ。でもそれでも、やらなければ信頼は崩れる。報われない努力の連続。司法書士って、なかなかハードだ。

依頼人のためだと割り切れない瞬間

感謝されることもある。でも補正対応は、どちらかというと「当たり前」に含まれている。だから、依頼人にいちいち説明もしない。そうすると、努力は見えないし、自己評価も難しい。そうなると「何のためにやっているのか」が分からなくなる瞬間がくる。誰も褒めてくれない、報酬も変わらない、ただ時間だけが奪われていく。これ、なかなか辛い。

ミスの責任は結局こちら持ち

法務局に指摘されるミスは、たとえ元の情報が依頼人の記憶違いであったとしても、最終責任はこちらにくる。「なぜ確認しなかったのか」と言われれば、返す言葉もない。確認書面を取っていても、「それでも出すなよ」と心の声が響く。だから、慎重になりすぎて仕事が遅れる。遅れると「対応が遅い」と言われる。もう、どうすりゃいいのか分からん。

「プロなら当然」という言葉の重み

「プロなら当たり前でしょ?」この言葉、結構きつい。正論だから言い返せない。でも、プロも人間。間違いもするし、疲れもたまる。でもそれを言い訳にできないのが司法書士。だから、「プロだからこそ慎重に」が必要になる。これは、自分に対する呪いでもあり、誇りでもある。何度も失敗を繰り返して、ようやく身につく心構えなのだ。

自分の存在を感じにくい仕事

誰かの役に立っているのだろうか。そう思うときがある。司法書士の仕事は、直接「ありがとう」と言われにくい。成果は書類という無機質な形に表れ、存在感が薄い。でも、その書類がなければ登記は成立しない。そう思っても、やはり寂しいものだ。せめて自分だけは、自分の仕事に意味を見出したい。そう思いながら今日も補正に向かう。

元野球部の感覚が支えになることもある

無心で繰り返す作業。これは、どこか野球の素振りに似ている。毎日100回、200回とバットを振る。それが直接ヒットになるわけじゃない。でも、積み上げたものは裏切らない。補正も同じ。ひとつひとつ見直して、訂正して、また次に生かす。単純作業に見えて、そこには経験値が詰まっている。野球と同じで、気持ちを込めすぎないことが大切だ。

無心で素振りを続けたあの頃のように

高校時代、真夏のグラウンドで素振りをしていたあの時間。誰も見ていない中での努力って、虚しいようでいて、あとから効いてくる。補正作業もそれと似ている。報われないかもしれない、でもやる。誰にも見えないところでの積み重ねが、自分の支えになる。結果を急がず、ただ目の前のことに集中する。それが結局、一番の近道なのかもしれない。

積み上げた数だけ自信にはなる

補正を何十回、何百回と経験すると、自然と「ああ、このパターンね」と気づけるようになる。それが少しだけ、自信になる。誰に評価されなくても、自分が分かっていればそれでいい。そう思えるようになったのは、40を過ぎてから。若い頃は、成果ばかりを気にしていた。でも今は、過程を大事にしている。補正も、無駄じゃない。そう思えるようになっただけ、ちょっと成長したのかもしれない。

それでも続けている理由

つらいことも多い。割に合わないと思うことも多い。でも、それでも辞めようとは思わない。小さなありがとう、小さな達成感、その積み重ねが、続ける力になる。司法書士という仕事が好きなのかと聞かれたら、即答はできない。でも、「今さら他のことはできない」と思えるくらいには、自分の一部になっている。補正と向き合う日々も、また自分の一部だ。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。