亡霊が印を押す夜
司法書士の朝は印鑑とともに始まる
コーヒーの香りと共に、一日の始まりを告げるのは、朱肉と印鑑の存在だ。依頼者の書類を確認し、ひとつひとつ押印していく。地味で目立たないが、間違いが許されない世界。それが司法書士の仕事だ。
今日も机の上には、共同申請書が並んでいる。だがこの日の依頼は、ひときわ違和感を放っていた。
奇妙な相談者が事務所に現れた
午前九時。事務所の扉が静かに開いた。姿勢の良い中年女性が入ってきて、淡々とした声で言う。「この不動産の名義変更、父と私の共同申請でお願いしたいのですが」
一見、何の変哲もない話。しかし、差し出された戸籍には、既にその父親が三ヶ月前に死亡していることが記されていた。
サトウさんの冷静な観察眼
背後に立っていたサトウさんが、静かにモニターをのぞき込む。「この印鑑証明、日付が昨日ですね」
彼女の声に相談者が一瞬たじろぐ。だがすぐに笑顔を作り直す。「ええ、生前に用意していたもので、亡くなった日をまだ役所に届けていなくて」
うーん、胡散臭い。けれどこの程度では断定はできない。どこかの探偵漫画なら、すぐさま「真実はいつもひとつ」とか言うのだろうが。
消えた共同申請者の謎
依頼書を一度持ち帰ったその女性は、二日後、今度は印鑑を押した申請書を持ってきた。しかし、どう見てもその印影は生きた人間のものではない。
押し方が浅く、かすれ、印の角がずれている。まるで、遺影に向かって手を合わせたあとに、朱肉で無理矢理押したような印象を受けた。
「これ…生きてる人間の意志を示してるとは思えませんね」サトウさんが冷たく言い放つ。塩対応すぎてこっちが寒くなる。
旧登記簿に残る不自然な記録
調査のため、法務局の資料室に向かう。古い登記簿をめくると、十年前に被相続人が一度、不動産を他人名義に変えた記録があった。
しかし、その後の更正登記で元の名義に戻っている。理由の欄には「誤登録」とだけ書かれていた。
誰が何の目的で名義を動かしたのか、その時点からすでにこの家には別の思惑があったのだ。
謄本に映った見えないもう一人
サトウさんが古い謄本と現在のものを比較していた。「この時点で、母親の名前が一度消えてますね。しかも、原因が書かれてない」
登記の履歴にぽっかり空いた空白。何かが意図的に隠されている。その痕跡はまるで、ルパン三世が現場に残していったメッセージのようだ。
「これは、まだ何かありますよ」とサトウさん。やっぱり彼女は侮れない。
一通の遺言書がもたらす混乱
さらに調査を進めると、公正証書遺言が一通見つかった。そこには娘には一切相続させないと明記されていた。
にもかかわらず、依頼者は堂々と父との共同申請をしてきた。目的は、父の死後に自分名義で登記するための既成事実作りだったのだ。
生きている間に印鑑をもらったのか、あるいは、すでに亡くなった父の印を無理に押したのか——。
亡くなったはずの人物の署名
司法書士として、見逃せない。共同申請者が故人であると知っていて提出する書類は、まさに虚偽だ。
「これは…不受理で返しましょう。虚偽登記に加担する気はない」
たとえ相手が亡霊でも、書類の整合性を保つのが、司法書士の仕事なのだ。
手続きの闇に潜むもう一つの顔
依頼者はその後、別の司法書士に依頼しようとしたようだが、私が法務局に一報を入れていたことで未然に防げた。
「やれやれ、、、余計な仕事が増えたな」思わず独り言が漏れる。
ただ、こんなことで揺らいでいたら、塩対応のサトウさんに「お疲れ様です」の一言すらもらえない。
サザエさんじゃないけれど妙な家族構成
最終的にわかったのは、被相続人が内縁関係の別の女性と暮らしていたこと。そしてそちらに遺産を残したいと考えていたことだ。
つまり、法的な相続人と、本人の意思が食い違っていた。そしてそのズレを悪用しようとしたのが、今回の娘だった。
法律は万能ではない。でも、書類に表れる痕跡は、時に真実を暴く武器になる。
誰が誰の名義を使ったのか
共同申請とは、信頼の証であるべきだ。亡霊が押した印鑑で、不動産の名義が動くようなことがあってはならない。
誰が本当の申請者なのか。誰がこの手続きに名を貸していたのか。それが最後の鍵だった。
幸い、未遂で終わったこの事件。だがこの先、似たようなことはきっとまた起こる。
サトウさんの推理とひとさじの優しさ
「あの依頼者、帰り際にちょっと泣いてましたね」サトウさんがふとつぶやく。
「ま、誰かに怒ってほしかったのかもしれませんよ」
その言葉に、ほんの少しだけ救われたような気がした。彼女の推理は冷静でも、芯には温かさがある。
印鑑の重みと司法書士の責任
今日も机には申請書が積まれている。印鑑はただの道具。でもその重みは、時に命よりも重い。
「さて、次の依頼は…」と手を伸ばしたとき、ふと視界にサトウさんが入る。
「シンドウさん、また亡霊関係じゃないですよね?」と冷ややかに言われた。
私は思わず笑ってしまった。「いやいや、今度は生きてる人みたいだよ」