「人を守る仕事」は、本当に自分のためになっているのか
司法書士という仕事は、一見「人を助ける」「社会に貢献する」華やかな一面があるように思われがちです。けれども、現場に身を置くと、その裏側には相手の不安や怒り、悲しみにどっぷり付き合う日々が待っています。こちらがどんなに体調を崩していようと、書類の期限は待ってくれません。依頼者の「助けてください」という言葉の裏にある重圧に、いつしか自分が潰されそうになることもあります。人の人生に深く関わる仕事ほど、自分の人生が削られていく感覚に襲われる瞬間があるのです。
「ありがとう」と言われるたびに、疲れがにじむ
感謝の言葉をいただけるのは確かに嬉しいです。ですが、それで報われたように見せかけて、実際は精神的な空白が広がっていると感じることがあります。ある依頼者に「先生がいてくれて本当によかった」と言われた日、なぜか涙が出そうになりました。でもそれは嬉し涙ではなく、「自分はどこまで頑張ればいいのか」という限界の涙だったように思います。「ありがとう」の言葉が、時に「頑張らなければならない」という呪縛に変わることもあるのです。
守る対象が増えると、責任はどこまで膨らむのか
開業してから十数年。依頼者だけでなく、事務所のスタッフ、家族、取引先など、守らなければならないものがどんどん増えていきます。そのたびに、自分の選択肢が狭まっていく感覚がありました。ひとつひとつは小さな責任でも、積み重なると雪崩のようにのしかかります。「断る」という選択が取りにくい職業だけに、気づけば常に何かに追われているような状態になっていました。
気づけば、自分の感情を置いてけぼりにしていた
依頼者の感情に寄り添うことは司法書士として大切な姿勢です。けれども、その習慣が当たり前になると、自分自身の気持ちを後回しにするようになります。誰かの怒りに耐え、誰かの涙を受け止め、誰かの焦りに付き合っているうちに、「自分は何を感じていたんだっけ?」とわからなくなってくる。そんな空虚さに、ふとした瞬間に襲われることがあるのです。
他人の人生ばかり真剣に考えて、自分の人生が見えなくなる
遺産相続の相談で、一家の揉め事に巻き込まれることもあります。調停、争い、心の傷。依頼者の未来を考えて動いているうちに、自分の人生は傍観者のようになっていく感覚がありました。あるとき妻に「最近、会話が減ったね」と言われてハッとしました。気づけば、家でも仕事のことばかり考えていたのです。依頼者の幸せに寄与するはずの仕事が、自分の幸せを遠ざけていたのかもしれません。
「家に帰っても仕事の続き」状態が当たり前になった
事務所にいない時間も、頭の中では申請の段取りや相談の対応がぐるぐる回っている。そんな日々が当たり前になっていました。食事中もふと手を止めて「明日までにあの書類出さないと」と思い出す。寝る前にスマホで法務局の申請状況を確認する。そうやってオンとオフの境界が曖昧になっていくと、身体は休んでいても心が休まらないという状況に陥っていきます。
感謝よりも、相談者の重さが心に残る日もある
毎日感謝されるわけではありません。時には厳しい言葉を投げかけられたり、「そんなこともわからないんですか」と責められることもあります。そのたびに、こちらも人間ですから傷つきます。それでも「この人の人生がかかっているから」と自分を奮い立たせて動く。そういう積み重ねが、「また一つ、自分の中で何かが削れたな」と感じさせる要因になっていきました。
「削られている」と気づいたのは、ある休日のこと
たまたま何も予定のない日曜、朝からずっと寝ていたことがありました。起きる気力がない、何かをしようという気持ちも起きない。疲れというより「空っぽ」に近い感覚でした。その日、自分の中で「これはまずい」と本気で思いました。人を支える立場にいるはずの自分が、実はとっくに自分を支えきれていなかったことに気づいた瞬間でした。
ふとした瞬間にこみあげる虚しさの正体
駅のホームでぼんやりしていたとき、目の前を通り過ぎる家族連れを見て、なぜか涙が出そうになりました。「ああ、俺、ちゃんと生きてるかな」と思ったんです。誰かの役に立っているはずなのに、どうしてこんなに孤独なんだろう。多くの依頼者と接しているのに、自分の中の寂しさだけが大きくなっていく。この虚しさが積もっていくと、本当に「壊れる」日が来るのかもしれないと思いました。
「これが本当にやりたかったことか?」という問い
若いころ、司法書士になろうと決めたときは「人の役に立ちたい」と純粋に思っていました。でも今、その思いはどこまで続いているのか。理想と現実のギャップに、いつしか慣れてしまった自分がいる。「辞めたいわけじゃない、でも続けるのもしんどい」。そんな感情の狭間に揺れる日々が続いています。
司法書士という仕事の“優しさの代償”
人に寄り添うというのは、簡単なようでとても難しいことです。優しくあることは、同時に自分を開くことでもある。そして開いたまま、傷を癒す時間もなく次の依頼者へ向かう。それが司法書士という仕事のリアルです。優しさはこの仕事の武器であり、時に毒にもなるのかもしれません。
優しくあろうとする人ほど、無防備に消耗していく
「冷たくなりたくない」と思って対応しているうちに、自分の感情がズタズタになっていく。相手にとっては一回限りの相談でも、こちらにとっては何十回目。それでも毎回真剣に向き合っていると、エネルギーが足りなくなるのは当然のことです。優しさというのは、結局自分をすり減らす行為なのかもしれません。
「聞き役」は共感と疲弊のセットでやってくる
人の話を丁寧に聞く。これは司法書士の重要な役割ですが、ただ聞くだけではなく、相手の立場に立って考えるからこそ疲れるのです。家族間のトラブル、不安、怒り。そういった感情に長時間さらされると、こちらの心も静かに削られていきます。共感力が高い人ほど、この消耗の波に呑まれやすいと感じています。
言葉の裏側にある感情まで背負ってしまう癖
「すみません、何度も同じことを聞いてしまって…」という相談者の言葉の裏にある「不安」や「恐れ」に気づいてしまうと、余計に丁寧に対応したくなる。でもそれを続けていると、こちらの体力もメンタルも保ちません。表面上の言葉だけに反応できれば、もっと楽なんでしょうけど、それができないのが自分の性分なんだと諦めてます。
それでも、この仕事を続ける理由
やめようと思ったことも、逃げ出したくなったこともあります。でも、今もこの場所にいます。苦しいけれど、辞められない。たまに心からの「ありがとう」が届いたとき、その一言だけで一週間が持つこともあるからです。誰かの人生のターニングポイントに立ち会える仕事なんて、そうそうありません。壊れかけながらも続けているのは、その奇跡を信じているからかもしれません。
人の人生に関われるという奇跡
相続登記、遺言書作成、会社設立。すべての業務の裏側には「人生」があります。その一部に関われるというのは、実はとても貴重なこと。目の前の業務に追われていると忘れそうになりますが、ふと振り返ったときに「自分の仕事って、やっぱり意味があるんだな」と思える瞬間があります。その瞬間のために、今日も机に向かっています。
「ありがとう」が沁みる日も確かにある
何百件とこなした相談の中でも、なぜか忘れられない「ありがとう」があります。ある高齢の女性が、手を握りながら「先生が最後までいてくれて、本当に安心しました」と言ってくれた日。あの言葉は、今でも心の中に残っています。自分が誰かの安心につながる存在であったなら、それだけで少し報われた気がするのです。