恋愛ドラマのセリフが白々しく感じる

恋愛ドラマのセリフが白々しく感じる

恋愛ドラマのセリフに違和感を覚える瞬間

最近、テレビをぼんやりと眺める時間が増えた。仕事から帰ってきて、食事を終えて、何となくテレビをつける。そこで流れてくる恋愛ドラマ。若い男女が真剣な顔で「君が必要なんだ」とか「一生、君を守る」とか言っている。正直なところ、そういうセリフを聞くと、心のどこかで「白々しいな」とつぶやいてしまう。年齢のせいか、それとも疲れのせいか。感動するどころか、逆にしらけてしまう。リアルな人生を重ねれば重ねるほど、ああいう言葉が軽く聞こえてしまうのは、やっぱり悲しいことなのかもしれない。

「そんなこと言う?現実で?」とつぶやいてしまう

あんなセリフ、本当に言う人がいるのか?と首をかしげる。たとえば、「たとえ君がどこへ行こうと、僕は君を信じている」とか。現実世界では、パートナーが少しでも連絡を怠っただけで疑念が生まれるのが人間じゃないか。私のように、日々、遺産分割で揉める家族と向き合っていると、人間の信頼なんてものがどれだけ脆く儚いか、骨の髄まで知ってしまう。そんな現実と、ドラマの世界とのギャップに耐えられず、ついテレビの前でぼそっと毒を吐くのが癖になっている。

経験に裏打ちされた言葉が少なすぎる

恋愛ドラマの登場人物たちは、たいてい短期間で恋に落ち、迷いもせずに愛を語る。でも本当の人生って、そんなに単純じゃない。人を信じるのに時間がかかるし、裏切られた経験があると、なおさら慎重になる。仕事でもそうだ。「信頼しています」と言われたところで、結局は契約書の文言ひとつで関係は変わる。私はそんな現実を毎日見ている。だから、重みのないセリフに感動しろと言われても、正直、無理だ。

人生の泥臭さが見えないセリフたち

恋愛ドラマに出てくるセリフには、苦労も迷いも見えない。まるで完璧な正解だけを最初から持っているような話し方だ。だが、実際には、誰かを好きになることだって苦しいし、不安もある。私自身、過去に恋愛で失敗したこともあるし、いまは独り身で、そもそも恋愛そのものに慎重になってしまっている。そんな泥臭さのない世界に、感情移入しろというのは無理がある。現実はもっと汚くて、不器用で、時には情けないものだ。

司法書士としての現実とドラマのギャップ

司法書士の仕事をしていると、言葉の重さや責任を日々感じる。特に、相続や財産分与など、人と人との繊細な感情が絡む案件に接していると、「言葉」そのものの意味が身に沁みる。だからこそ、ドラマの台詞の軽さが鼻につくのかもしれない。現実では、一言が関係を壊すこともあるし、逆に救うこともある。口にする前に何度も考えるのが普通だ。そこには、生々しい感情があり、計算があり、時には絶望もある。そんな現実を知っているから、恋愛ドラマの美しい言葉たちが、どうにも嘘っぽく聞こえてしまうのだ。

リアルな人間関係にはもっと矛盾がある

本当の人間関係は、もっとドロドロしている。信じたいけど信じきれない。助けたいけど距離を取りたい。そういう葛藤の中で人は生きている。例えば、遺言書ひとつで兄弟が憎しみ合うようになる。そんな場面を何度も見てきた。どれだけ立派な言葉を並べても、行動や過去の積み重ねがなければ意味を持たない。恋愛ドラマは、そういう泥臭い部分をすっ飛ばして、美しい台詞だけで人間を描こうとするから、どうしても空々しく感じてしまう。

言葉の裏にある“事情”を見抜く癖

司法書士という仕事柄、私は人の言葉の裏を読もうとする癖がある。「この人、本音は違うな」とか「この表現、何かを隠してるな」とか。そういう目でドラマを見ると、どうしても登場人物のセリフが不自然に見えてくる。「ああ、これは視聴者ウケを狙った言葉だな」とか「このセリフ、リアリティないな」とか。もはや職業病なのかもしれない。でも、それくらい現実世界では“言葉に騙されない”ことが大事なのだ。

綺麗事だけでは通用しない世界

法務の世界にいると、「正義」や「誠実さ」といった理想が、現実にはいかに扱いづらいかを痛感する。たとえば、「大切に思っています」という言葉があっても、実際の行動が伴わなければ意味はない。恋愛ドラマのセリフも同じだ。「君を一番に考えてる」と口にしても、現実には他人に流され、優先順位を変えることだってある。綺麗な言葉でごまかすより、無骨でも誠実な態度のほうが、私には信じられる。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。