定年がない職業の現実とは
「定年がないってうらやましいですね」と言われることがある。でも正直なところ、うらやましがられるたびにモヤっとしてしまう。確かに年齢で切られることがないのはありがたいが、それは裏を返せば「どこまで働き続けてもいい」という話で、「どこでやめたらいいのか誰も教えてくれない」という話でもある。気づけば45歳、気力で持ちこたえてるだけで、いつまで走り続けられるのか…不安しかない。
一見、自由そうで実は出口がない
定年のあるサラリーマンが退職後の計画を立てられるのに対して、我々のように定年のない職業は、そもそも“終わり”を想定して生きていない。毎年「今年こそは少し楽になるか」と思いながら、結局は同じか、むしろ忙しくなっていく。誰も「もうやめていいよ」なんて言ってくれないから、ズルズルと続けてしまう。まるで、出口のない迷路に入ってしまったような気分になる。
頑張れば頑張るほど、辞め時が遠のく
昔、ある先輩に「仕事ってのは頑張れば頑張るほど抜け出せなくなるぞ」と言われたことがある。当時は意味がわからなかったが、今なら身にしみてわかる。信頼を得て依頼が増える→断れない→休めない→また信頼が積み上がる…という終わらないスパイラル。気づけば、仕事に取り込まれて人生そのものが“業務”になってしまっていた。手放すきっかけも失ってしまうのだ。
「一生現役」という呪縛
「一生現役」なんて言葉、言うのは簡単だ。でも、実際にやってみるとキツイ。「まだ若いでしょ」と周囲は言うが、肩はこるし目も疲れるし、メンタルはすり減る。何より、常に“更新し続けなければ取り残される”というプレッシャーがある。年齢を重ねるごとに、その呪縛は強くなるばかりだ。逃げ場のない立場で、どこまで戦い続けるつもりなのか…自分でもわからない。
働き続けられることの代償
たしかに、好きなときに働けるし、ある程度自分のペースで仕事も選べる。だけどそれは、「働き続けられる体」と「断らない心」が前提にある話だ。実際、年々そのどちらも怪しくなってきているのが現実。疲れが抜けない。書類の細かい文字が読みにくい。集中力が夕方になるとガクッと落ちる。働けるから働くのではなく、働かないといけないから無理している。そんな自分に気づく瞬間が増えている。
心身の疲労が蓄積していく
「今日は早く寝よう」と思っても、深夜にようやく書類を印刷し終えることも多い。集中が切れてからもパソコンに向かう日々。健康診断には数年行けていない。仕事をしている自分が“元気”であるという前提で、毎日が回っているのだ。だから体調を崩すわけにはいかない。でも、そんな綱渡りみたいな状態が続いて、正直、いつ倒れてもおかしくない。そんな不安を抱えて仕事している。
休むと罪悪感、休まないと不調
「休んでもいいよ」と自分に言い聞かせても、結局は心のどこかで「こんな時に?」という声が聞こえてくる。電話一本で気が休まらず、事務員にも「今日は休みます」と言いにくい。結果的に、休んでるはずの時間にメールを返し、資料をチェックしている。休んだ気がしないどころか、身体だけが静かに悲鳴をあげてくる。それでもまた「明日があるから」と無理をする。この繰り返し。
司法書士にとっての“終わり”の見えなさ
定年がないというのは、いわば「ずっと走っていいよ」というレース。でもゴールが見えないから、どこで立ち止まっていいかわからない。司法書士という仕事は、ある意味「終わらせる覚悟」が求められる。依頼がある限りは続けるのが誠実だし、途中で投げ出せない性質の業務が多い。だからこそ、なおさら“やめるタイミング”を失っていく。そんななか、ふと立ち止まって自分の老後を考えることもある。
誰も「もういいよ」と言ってくれない世界
誰かに評価されて昇進するわけでも、定年後に送別会をしてもらえるわけでもない。自分が決めない限り、終わりはやってこない。仕事があって生活できている今は幸せなのかもしれないが、それと引き換えに「引退する権利」を失っているようにも感じる。誰かに「もう休んでいいよ」と言ってほしい気持ちは、年を重ねるごとに強くなっている。
お客さんに頼られる喜びと重圧
「先生にしか頼めないんです」と言われると、嬉しい反面、プレッシャーでもある。「他の人に頼んでみたら?」とは言えない。責任感が強いというより、断るのが下手なだけかもしれない。断ったら「冷たい人」になってしまう気がして、つい引き受けてしまう。そしてまた、疲れた身体で夜のデスクに向かうことになる。このループから抜け出す方法を、今も探し続けている。
後継者がいない、という孤独
地方の小さな事務所。事務員はいても、後を継ぐ人はいない。自分が辞めたら、この事務所は閉じるだけ。それを思うと、「いなくなっても誰も困らないんじゃないか」と虚しくなる。何十年と積み上げてきたものが、ある日ぽっかり消える。それが怖くて、無理してでも続けてしまうのかもしれない。だけど、それもまた一人相撲なのかもしれない。
事務所経営のリアル
経営といえばカッコいいが、実際は地味で細かい作業の連続だ。事務員がいても、すべて任せきれるわけではない。ミスがあれば責任を取るのは自分。細かい修正も気になるし、電話も来客も常に対応が必要だ。気を抜けるタイミングがほとんどない。時々「経営者って自由でいいですね」と言われると、「やってみなよ」と言いたくなる。
一人事務員と二人三脚で回す限界
うちの事務所は、事務員さんと僕の二人だけ。彼女がいないと事務所は回らないし、僕も彼女も休みづらい。繁忙期なんて、二人とも黙々と昼飯をかき込んで仕事をする。そんな状況を何年も続けてきたけど、やっぱり無理がある。人を増やしたくても、教える余裕がない。このままじゃ共倒れになる気さえしている。
忙しさに慣れてしまった生活
朝から晩まで仕事、夜は寝る前に少しテレビ。そんな生活に、もう何年も慣れてしまった。最初は違和感があったけど、今ではそれが普通になっている。たまに休みがあっても、何をしていいかわからず結局デスクに戻る。これって“生きてる”って言えるのか。そんな疑問が、夜の静けさの中でふと浮かぶ。
やることが尽きない=いつまでも働く
「これが終わったら楽になる」と思っていた案件も、気づけば次の案件がすぐに入る。やることは尽きない。ということは、いつまでも終われない。終わらせようとすれば、無理やり断つしかない。でも、それができる性格なら、今こんな風に悩んでいない。いつまでも働き続けるしかないのが現実だ。
定年がないことの“老後”の不安
多くの人が60歳で一区切りを迎え、老後の設計を始める。でも司法書士にはその節目がない。だからいつまでたっても“老後”が始まらない。気づけば70歳、それでも変わらない日常に身を置いているかもしれない。貯金も年金もギリギリで、頼れる家族もいない。そんな未来が、まったく非現実ではないからこそ、怖い。
働き続けないと生活が不安定
仕事が止まれば収入も止まる。当たり前だけど、それが現実だ。年金だけで生活できる気がしないし、家のローンや車の維持費もある。だから働き続けざるを得ない。でも、それができなくなった時のことを考えると、何も準備ができていない。それが一番の不安だ。
年金だけでは足りない現実
年金通知を見るたびに、「これで生活しろってこと?」と苦笑いする。今の生活水準を保つには到底足りないし、医療費や介護費がかかるようになったらどうするのか。不安は尽きない。でも、働いてる間はなんとなく考えないようにしてる。それも現実逃避だとわかっているけど、向き合う勇気が出ない。
病気になったとき、どうする?
ある日突然、倒れたら?入院したら?その時、この事務所はどうなる?そんなことを考えて夜眠れなくなることがある。保険はあるけど、それで解決できる問題じゃない。自分が動けなくなることが、すべての崩壊につながる。そのリスクを一人で背負ってるという現実が、時折ものすごく重くのしかかってくる。
「やめ時」をどう見つけるか
人生の幕引きをどうやって決めるのか。それがわからないまま、ただ時間だけが過ぎていく。「やめ時」は、外からは見えない。自分の中にしかない。だけどその“自分”がいちばん曖昧で、いちばん決断を先延ばしにしてしまう。気づけばもう定年のある職業の人たちよりも年上になっていた。
誰にも相談できない引き際
同業者に相談しても、皆「まだ若いんだから」と言う。でも、その“若い”の基準がもうよくわからない。年齢だけで測れない疲労と孤独がある。後輩には弱みを見せたくないし、家族もいない。だから、誰にも「もう限界」と言えない。そうして黙って続けているうちに、心の声が小さくなってしまう。
辞めたあとに待っているものがない恐怖
「やめて何するの?」と聞かれて、答えが出てこない。趣味もない。友達も少ない。恋人もいない。仕事を辞めたら、文字通り“空白”しか残らない。それが怖くて、やめられない。だから、多少無理をしてでも仕事を続けてしまう。でもそれは“生きる”というより、“耐える”ことなのかもしれない。
趣味も友人も少ない、独身男の老後
休日に誰かと出かける予定もない。ふとした瞬間に、「このまま年を取ったら、どうなるんだろう」と不安になる。結婚もしてないし、子どももいない。介護が必要になったら、誰が助けてくれるんだろう。そんなことを考えると、老後という言葉がとても重く感じる。だから働くしかない。働いている限りは、少なくとも“社会に所属している”という実感だけは得られるのだから。