封印された委任欄
朝の事務所はいつもと変わらぬ静けさに包まれていた。コーヒーの香りとともに、今日も地味な登記申請と戦う一日が始まる――はずだった。
しかし、机に置かれた登記申請書を見た瞬間、何かが引っかかった。提出された書類は一見整っている。けれど、その「整いすぎた」感じが逆に鼻についた。
登記申請書に潜む違和感
委任状、印鑑証明書、住民票……必要書類は揃っていた。だが、委任状の筆跡だけが、他の書類と微妙に違っていたのだ。
しかも、委任者の欄に記された名前が、どこかで見たような、でも妙に記憶に引っかかる。「やれやれ、、、また厄介なやつかもしれんな」とつぶやく。
この手の違和感は、経験則では赤信号に近い。表面上の整合性こそが、最も危険な香りを放つ。
古い名義と新しい依頼人
依頼人の名義変更は、相続によるものと説明された。しかし調査すると、被相続人である父親の名義は10年以上前に売却されていた記録が出てきた。
つまり、そもそも相続する権利自体が消えているはず。登記簿を何度見返しても、矛盾は明白だった。
依頼人に事実確認をしても、「父から相続したとだけ聞いています」と曖昧な返事。背後に何かが隠れている。
シンドウのうっかりとサトウの鋭さ
「えーっと、じゃあ、これはどういうことなんだろうな」と独り言を漏らしながら、書類の束を落としてしまうシンドウ。
そのとき、ひらりと落ちた1枚のコピー用紙に目を止めたのはサトウだった。「これ、日付が一致してません。しかもこの委任状、原本が…ありませんね」
さすがサトウさん。氷のように冷静に、核心を突く。その冷たさに少し凍えるが、ありがたい存在だ。
法務局からの不可解な照会
午後、法務局から照会のFAXが届いた。「この委任状、前回の申請でも使われたようですが……」と書かれている。
慌てて登記情報を照会してみると、確かに似たような委任状が、別の案件で数カ月前に提出されていた。
再利用された委任状? そんなバカな。使い回しなど許されるはずがない。
司法書士が震える瞬間
汗がにじむ。書類の真贋は司法書士の命だ。ミスどころか、虚偽書類を通したとなれば資格の危機すらある。
「まずいな……これは俺の署名がついてる以上、完全に責任がのしかかってくる」と、胃がきりきりする。
しかし同時に、燃えるような推理心が疼く。まるで、コナン君が眼鏡の奥で「真実はいつもひとつ!」と呟くように。
書面の裏に残された痕跡
委任状の裏面に、薄く転写された文字があった。コピー機のガラス面に汚れが付いていたか、あるいは……。
「前回の申請の委任者名と同じじゃないですか?」とサトウが指摘する。見比べると、字体もインクのにじみ具合もほぼ一致。
つまり、同じ文書が複数に流用された証拠となる。偽造か、あるいは悪用か。
委任状が語る過去の影
依頼人が再び訪れたとき、シンドウは静かに聞いた。「これ、本当にご自身が作成された委任状ですか?」
依頼人の顔が曇った。「実は……兄が全部準備してくれて。私は何も知らないんです」
――出た、影の人物。何かあったとき、必ず裏で動いている者がいる。
消えた前任司法書士の謎
調査の結果、以前この物件の登記を担当していた司法書士が既に廃業していたことが判明。
さらに奇妙なのは、その司法書士名義の印影が、今回の委任状と酷似していた点だ。完全なコピーか、それとも……。
「事務所に泥棒でも入られたのかしらね」とサトウはさらりと言ったが、それが真相の一端だったとは。
登記簿に刻まれた不適格
最終的に、法務局が申請を却下。「不適格な委任状による申請」との判断が下され、申請はすべて差し戻された。
依頼人兄弟には行政処分の可能性も告げられ、事態は収束に向かう。だが、後味は妙に苦い。
「やれやれ、、、また胃薬が増えそうだ」と、シンドウはこぼす。机の引き出しから胃腸薬を取り出した。
サトウの仮説とシンドウの推理
「結局、あの兄は名義をどうしたかったんでしょうか」とサトウ。シンドウはうなずいた。
「相続による名義変更を装って、所有権を移転させた上で売却するつもりだったんだろうな。登記が通れば、現実になる」
それだけ登記の「正しさ」が社会的に強力な力を持つことの裏返しでもある。
古い契約書が導く真相
机の奥から見つかった古い売買契約書のコピーには、今回の物件の所在地と一致する情報が残っていた。
だが、印鑑証明書の有効期限はとっくに切れており、それを知っていながら兄は押し通そうとしたらしい。
「もしかして、あの兄貴……昔、不動産業者だったとか?」とサトウが呟く。真実は不明のままだ。
登記官が語る最後の鍵
「司法書士の責任は重いですからね」法務局の登記官は穏やかに言った。「でも、気づいて止められる人がいるから、社会は保たれてます」
その言葉に少しだけ救われた気がした。重圧の中にも、確かに意味があった。
それにしても、心の胃は今日も荒れ模様である。
シンドウの独り言とサトウの冷静な一言
「いやぁ……司法書士って、ほんと損な役回りだよなぁ。書類の山に埋もれて、胃をやられて、報われるのは……」
「年に一度くらいですかね」とサトウが言う。冷たい、けれど妙に真実味がある。
シンドウは深くため息をつきながら、次の案件のファイルを手に取った。
封印された委任欄が開く時
委任状ひとつで、ここまで大ごとになるとは。だがそれが、司法書士の現実だ。
「今度は正真正銘、問題のない委任欄だといいな……」そんな願いを込めつつ、彼は次の書類に目を通し始めた。
どこかで、また誰かが封印された委任欄を開けようとしている。司法書士シンドウの戦いは、まだ終わらない。