登記所の静けさに紛れて
地方の登記所は、相変わらず時間が止まったように静かだった。書類をめくる音と、印刷機のかすかな動作音が響くのみ。ぼくはいつものように、コーヒーの冷めた苦味を舌の奥に感じながら、机に広がる書類と格闘していた。
ふと、窓の外を見やると、曇天の下に誰かの影が差していた。傘も差さず、立ち尽くすその姿は、なにか言いたげだったが、ただそこに立っているだけだった。
「まさか……いや、そんなドラマみたいな展開あるわけないか」などと独りごちて、ぼくは目の前の登記申請書へと意識を戻した。
午前九時のささやかな違和感
その日の最初の来訪者は、細身の男性だった。声は小さく、目も合わさない。申請書を差し出す指先がやけに震えていたのが気になった。
「相続登記の件で…こちらを…」と差し出された封筒には、不自然な重みがあった。書類にしては妙な厚みと硬さ。まるで何かを隠すような、そんな感触。
その瞬間、昔読んだ『怪盗キッド』の仕掛け封筒を思い出してしまった。仕掛けがあるなら、まず疑ってみるのが探偵の基本だ。
いつも通りではなかった来訪者
「どこかで見た顔だな…」と脳裏を過ったが、記憶のどこにもヒットしない。だがその妙な既視感が、後にすべてを繋ぐ伏線となるとは、この時は思いもしなかった。
受付を済ませると、男はそそくさと立ち去った。礼もなく、視線も合わさず。何かを隠すような背中に、妙な湿気を感じた。
サトウさんは、冷静にその背中を見送りながら一言。「怪しいですね」
机の上に置かれた怪しい申請書
封筒の封を切ると、確かに必要書類は一式そろっていた。だが、どれも綺麗すぎる。まるで、今日のこの日のためだけに準備されたような新しさ。
そして決定的におかしかったのは、相続人の署名欄にあった名前。どこかで見覚えがある。いや、見たことがあるというより…。
「これ、筆跡…変じゃないですか?」と、横から覗き込んできたサトウさんが、冷静に言った。まるでコナン君のように。
封筒に残された誰かの香り
紙の間からほのかに漂った香水の香りは、かすかに甘く懐かしかった。なぜか心がざわついた。そんな香り、どこかで…。
ぼくの頭の奥に、大学時代の夏の記憶がよみがえった。あのとき、登記法のゼミで隣に座っていた彼女が使っていたのと同じ香り。
まさか、と思いつつも、書類の送り主をもう一度見直す。申請者の名義は「ハセガワユイ」。偶然にしては出来すぎていた。
添付書類の名前が語る過去
住民票と戸籍の附票をじっくり見ると、10年前の住所に見覚えがあった。そこは、かつてぼくが初めて住んだアパートの隣の部屋の住所だった。
「どうしてこの人が…?」と、思考が止まる。まるでルパン三世が銃を突きつけてきたような、不意打ちの展開。
やれやれ、、、仕事に集中できそうにない。恋と登記は同時に処理できない設計なのだ。
サトウさんの鋭いひと言
「たぶん、虚偽申請ですね」とサトウさんは静かに言った。ペンを回す手も止めず、画面を見ながらさらりと口にする。
「でも、これは恋絡みですよ、たぶん」その一言に、ぼくは思わずむせた。お茶が気管に入った。
「恋と虚偽申請がセットなんて…ドラマの見すぎじゃないか?」と返しつつ、どこかでその可能性を否定できない自分がいた。
彼女の推理が動き出す瞬間
「この日付、計算が合わないんです。提出日と死亡日のズレ、そしてこの固定資産評価証明書…全部、裏がありそう」
まるで灰原哀のような冷静さ。ぼくの事務所における名探偵は、完全に彼女だった。
「もうちょっと調べます。あと…元カノじゃないですよね?」冷たい目が突き刺さる。ぼくは「違う、はず…だ」と小声で答えた。
申請人の正体と謎の空白
調査の結果、申請人は実際には法定相続人ではなかった。むしろ、その不動産には一切の権利がない人物だった。
だが、戸籍の裏をかくように、関係者の名前が変わっていた。偽名、婚姻届の取消、削除された戸籍。すべてが仕組まれていた。
法の目をかいくぐった登記計画。しかし、それを解き明かしたのは、机の上の一枚の「補正指示書」だった。
なぜ嘘をついてまで提出したのか
彼女は、亡き父の土地をどうしても守りたかったのだろう。名義を変えず、愛した場所を売られないようにするために。
そして、それが自分にとって「かつての誰か」の思い出の場所でもあったとしたら…。
ぼくの胸には、ちくりと古傷が疼くような感情が広がっていた。
恋の予感と登記簿の矛盾
「情状酌量の余地…ありますかね」そうぼくがつぶやくと、サトウさんはため息まじりに言った。「やさしすぎです、センセイ」
登記簿に書かれるのは事実だけ。感情も記憶も、そこには記されない。でも、だからこそ人は、そこに何かを残したくなるのかもしれない。
ぼくはふと、申請人に送る通知文の最後に「ご自愛ください」と書き添えていた。
証拠は付属書面の裏にあった
すべてが明らかになったのは、固定資産評価証明書の裏面にあった一文だった。「あなたの幸せを祈っています」
まるで手紙のような、最後のメッセージ。これがすべての動機であり、決して登記簿には残らない想いだった。
「そういうの、嫌いじゃないですよ」と、サトウさんがぼそりと言った。その言葉に、思わず顔が熱くなる。
事件は解決し恋は静かに始まった
虚偽申請は受理されず、却下通知が出された。だが、それに添えたぼくの手紙は、きっと彼女の心に届いたと思う。
そして数日後、再び彼女が現れた。正しい手続きを踏んだ申請書を持って。「今度は、ちゃんとお願いできますか?」
ぼくは書類を受け取り、静かに頷いた。登記簿には載らない恋が、確かにそこに芽吹いていた。