朝、目覚ましを止めるのも「自己責任」
司法書士として独立してから、すべてが自己責任になった。朝起きるのも、昼食をとるのも、帰る時間を決めるのも、すべて自分。誰かにスケジュールを管理されることはない代わりに、「自分を律すること」に常にエネルギーを使う。ベッドから起き上がるだけで、既にひとつの決断なのだ。
今日も誰も起こしてくれない
目覚まし時計を三重にセットしているが、それでもスヌーズボタンを無意識に押し続けてしまう朝がある。誰かが「遅れるよ」と声をかけてくれるわけではない。遅刻しても怒られることはないが、その分、誰からのフォローもない。寝坊した日は、その日一日中、自己嫌悪の塊になる。
目覚ましを3つかけているのに起きられない朝
ある冬の日、前日の残業で夜中の2時まで仕事をしていた。朝は7時に起きる予定だったが、結局起きたのは9時過ぎ。登記の相談があった依頼人には、慌てて謝罪の電話を入れたが、その瞬間に「全部自分のせい」という現実に打ちのめされる。責任感が強い人間ほど、こういう時のダメージは大きい。
遅刻しても誰も怒らない。でもそれが逆につらい
会社員時代は、遅刻すれば上司に怒られた。今はそれがない。自由なはずなのに、なぜか寂しい。誰かに叱ってもらえるというのは、実はありがたいことだったのかもしれない。孤独な自由。それはときに、優しさのない荒野にひとり取り残されたような感覚を生む。
お昼ごはんを決めるのに5分悩む
小さなことのように思えるかもしれないが、毎日の決断の積み重ねはじわじわと心を蝕んでいく。昼に何を食べるかすら、自分で決めなければいけない。コンビニか弁当屋か、それとも事務所でカップ麺か。その選択に5分以上悩んでしまう自分に、ふと呆れる瞬間がある。
決断疲れは、こんなところにも現れる
人は一日に数千回の決断をしていると言われている。司法書士の仕事も、まさに決断の連続。書類の優先順位、顧客対応の方法、事務処理の流れ……全てにおいて判断が求められる。そんな中で、昼食という「どうでもいい決断」にも疲れてしまうのだ。
外食か弁当か、それが問題だ
外に出て食べると、気分転換にはなるが、時間とお金がかかる。一方、事務所で手早く済ませれば仕事ははかどるが、どこか味気ない。結局、どちらを選んでも「これで良かったのか」と考えてしまう。こうした小さな迷いが、じわじわとストレスになっていく。
「なんでもいい」の裏にある責任逃れの心理
「なんでもいいよ」という言葉を、かつて誰かに言っていた頃があった。今、自分が「なんでもいい」と言っても、誰も決めてくれない。自分が決めないと、昼ごはんは抜きになるだけ。そう思うと、「なんでもいい」は逃げの言葉だったのかもしれないと気づく。
仕事の優先順位も、全部自分で考える
司法書士の業務は多岐にわたる。登記、相続、成年後見、裁判書類の作成……それぞれに期限があり、緊急性も異なる。その中で「今日は何から手をつけるか」を毎朝決めるのは、想像以上にエネルギーを使う作業だ。誰かに「これからやって」と指示してほしいと思うこともある。
誰にも相談できない「今日何からやるか」問題
事務員さんはいるが、基本的な判断はすべて自分。間違えたら、すべて自分の責任。だから慎重になりすぎて、逆に動けなくなることもある。そんなとき、「間違ってもいいから、とにかくやってみよう」と自分を励ます声すら、誰もかけてくれない。
依頼人の電話、期限付きの申請、急ぎの登記
朝9時に出社して、留守電のランプが点滅しているだけで、胃が痛くなる。緊急の相続登記か、成年後見の相談か。電話を折り返す前から、気持ちはざわついている。申請書類はどれも重要だが、優先順位をつけるのが難しい。そんな毎日に、心がすり減る。
「まあ明日でもいいか」が積み重なっていく
判断の連続に疲れてくると、つい「これは明日でもいいか」と先送りしがちになる。もちろん明日に回したところで、自分以外の誰かが代わりにやってくれるわけではない。明日の自分に丸投げしているだけなのだと、後になってから後悔する。