朝の来客は無言だった
朝一番、玄関のチャイムが鳴った。ドアを開けると、無言のまま深く頭を下げる中年女性が立っていた。手には古びた封筒と、何かを決意したような強い目。
「相続登記をお願いしたいんです」とだけ言って、彼女は書類を机に置いた。だが、その沈黙の中には何かが潜んでいた。
ただの事務手続きでは終わらない。そんな予感が、背筋をじわりと這い上がってきた。
妙に沈んだ目をした依頼人
彼女の視線は、常にテーブルの一点を見つめていた。相続人であるはずの弟が、数年前に失踪していたという。
「失踪宣告の手続きもお願いできますか?」その一言が、事件の幕開けだった。
普通なら戸籍や登記簿を確認して進めるだけなのに。何かが引っかかる。そんな違和感を、サトウさんも感じ取っていた。
サトウさんの直感が騒ぎ出す
「この人、何かを隠してますね」とサトウさんは冷たく言い放った。コーヒーを飲みながら、パソコンの画面に目を落としたまま。
彼女の勘はよく当たる。僕は内心でうなずきつつ、「やれやれ、、、また面倒なことになりそうだ」と天井を見上げた。
その時はまだ、この案件がここまで大ごとになるとは思っていなかったのだ。
戸籍の空白と登記の不整合
調査を進めると、除籍謄本に妙な空白が見つかった。弟の死亡が記載されていないのに、遺産はすでに名義変更されている。
「これ、どういうことだ?」登記簿には確かに依頼人の名が所有者として記載されている。しかし、その前提となる相続の証明がどこにもない。
まるで、存在しない人物から遺産が流れてきたようだった。
死亡届と相続の矛盾
市役所にも確認をとったが、死亡届は提出されていない。だが登記は完了している。普通なら法定相続情報一覧図や戸籍類を揃えなければ成立しない。
なのにそれが、何故か済んでいる。書類に不備はない。だが、なぜだ。どこかが腑に落ちない。
まるでルパンが忍び込んで、合法的に金庫の中身だけをすり替えたような、そんな不気味さがあった。
除籍謄本に現れた謎の空欄
「ここ、住所が消えてます」とサトウさんが指摘したのは、弟の本籍欄だった。転籍でも死亡でもない、不可解な空白。
「これって、誰かが書き換えた?」僕はそう言いながら、机の引き出しから10年前の相続事案のファイルを取り出した。
当時も同じようなパターンで、不正な移転登記が行われていた。そこには、今回と同じ役所の印が押されていたのだ。
不動産名義に隠された手口
登記原因証明情報をよく見ると、何やら怪しいフォントの違いがあった。印刷された文書の中に、1行だけ明らかに異なる書式。
「ああ、これは貼り替えられてますね」とサトウさん。冷たくも鋭い指摘が、僕の背筋をまたしても凍らせた。
よく見れば、印影もかすれている。朱肉の濃さが明らかに不自然だった。
古い登記と最近の所有権移転
さかのぼって見ていくと、前回の名義人から現在の依頼人への登記は、2年前のものだった。だが、そのとき弟はまだ“生きていた”はずだ。
となれば、本人確認書類が偽造された可能性がある。もしくは、依頼人が直接関与していたか。
登記簿が語るのは、嘘ではなく“真実を語らないこと”だった。
司法書士の目が見逃さなかった点
登記原因証明情報の「代理人」の欄に見覚えのある名前があった。「木島一郎」――それは以前、職印を不正利用して行政処分を受けた男だった。
「これ、アカンやつや」と思わず口に出た。あの時の騒ぎが、また戻ってくるのか。頭を抱えたくなった。
だが、逃げてはいけない。司法書士の責任は、そこから始まるのだ。
謄本の裏に潜む改ざん疑惑
地方法務局に照会をかけ、原本対照を申し出る。結果、登記済証の記載と提出された写しに違いがあることが判明した。
印鑑証明の提出日付が1週間ズレている。そのわずかなズレが、改ざんの決定打になった。
これは完全にアウト。詐欺登記だ。
筆跡と印鑑の不一致
筆跡鑑定を依頼し、かすれた印影との照合も行った。結果、依頼人が提出した書類の印鑑は、過去の別案件で使われたものと一致。
だが、その時の使用者は“弟本人”だった。つまり、印鑑を預かっていたか、盗んで使っていたことになる。
もしくは、最初から弟など存在していなかった可能性も考えられた。
預金通帳と契約書が語る別の真実
金融機関の協力を得て通帳を確認すると、登記完了の直後に大金が動いていた。受取人は第三者の法人名義。
さらに調べると、その法人は休眠状態。まるで資金洗浄のような動き。
怪盗キッドのように派手さはないが、誰かが着実に“証拠を消す”準備をしていたのは間違いなかった。
サザエさんの法則と相続のカラクリ
「サザエさんって、いつも変わらないでしょ。相続って、そこに油断が出るんですよ」とサトウさんが言った。
確かに、家族だから大丈夫だと思い込む。そこにこそ、カラクリが潜む。
見えている人物だけが家族とは限らない。登記簿と戸籍がそれを教えてくれる。
失踪宣告と財産目当ての落とし穴
弟の失踪宣告は、手続きをせずに「死んだことにしている」だけだった。真相を追うと、弟は地方で生活保護を受けて生きていた。
しかも、現在も生存中。これが証明されれば、今回の相続登記は無効になる。
依頼人の目に浮かんだのは、諦めでも後悔でもない。明らかな悪意だった。
サトウさんの冷静な分析
「偽造ですね。全部消してやり直し。報告も必要です」と、サトウさんは淡々とまとめた。
その口調は冷たくとも、どこか優しさも含まれていた。情ではなく、正義としての優しさ。
僕は、あらためて彼女に感謝した。感情ではなく、事実を見る目を持っていた。
「これ、やられてますね」
最初の直感は正しかった。「これは完全に詐欺登記です。どうします?」とサトウさん。
「当然、報告する。逃げたら司法書士やってる意味がない」と、僕は力なく答えた。
正義感というより、司法書士としての義務だった。
元野球部の嗅覚が動き出す
「何かあるとグローブの匂いを思い出すんですよ」と僕は笑った。あの汗臭い、革の匂い。勝負の前のあの感覚。
どんなに見えない球でも、バットを振るしかない時がある。
今回はそれが、ペンと報告書だった。
グローブを捨てても勘は健在
「打席に立つ覚悟、できてます?」とサトウさんが言った。たぶん、冗談だ。
だけど、僕はうなずいた。「やるよ。打たなきゃ負けだからな」。
グラウンドは法務局、相手は不正と偽りだ。
そして誰もいなくなった登記簿
結局、依頼人はその後音信不通になった。だが、関係各所への報告と抹消手続きは粛々と進んだ。
登記簿から、名前が消えた。だが、残された記録は真実を語っていた。
誰かが嘘をついても、紙は嘘をつかない。それが登記簿という存在なのだ。
依頼人の正体とその動機
最終的に、依頼人は弟の実の姉ではなかった。戸籍も偽造されたもの。彼女は長年介護を続けた元内縁の妻だった。
財産を得たかったのは当然だったのかもしれない。でも、それは許されるものではなかった。
司法の世界では、想いよりも証拠が全てなのだ。
司法書士としてのけじめ
依頼人がいなくなった今、僕にできるのは事実を残すことだけだった。
サトウさんが言った。「司法書士って、記録する仕事なんですよ。だから正しく記録するしかないんです」
やれやれ、、、ほんとに、そうだよな。