「恋人と会う時間」という言葉が、自分から遠ざかって久しい
気づけば「恋人と会う時間」が予定に存在しない日々
最近ふと、自分のスケジュール帳を眺めていて、なんとも言えない空白を感じた。「恋人と会う時間」という欄が、もう何年も存在しない。いや、そもそもそんな項目を入れたことがあっただろうか?それくらい、この言葉は今の自分には縁遠い。過去には確かにあったのだ。「来週の土曜はデートだからこの案件は早めに片付けておこう」とか、「週末は旅行に行くから、登記は前倒しで」と書いた記憶がある。今はどうだろう。デートの代わりに「顧客との打合せ」、旅行の代わりに「相続登記の期限」と書かれた手帳。自分の時間は、もうすっかり誰かのためのものになっている。
予定表には依頼者との面談だけ
手帳を開けば、平日も土日も「面談」「申請」「電話対応」とびっしり。埋まっていることに安心する一方で、どこか寂しさを感じるのも正直なところだ。昔は手帳に「ゆっくり会う日」「夕方から映画」と書いていた時期もあった。でも、事務所を構えてからは変わった。仕事が最優先になり、「空いてる=予定を入れていい」と錯覚し、結局は全部埋まってしまう。誰かの都合を優先するたびに、自分のプライベートが削られていった。
恋愛じゃなくて、登記の期日と向き合う毎日
世の中の人が「恋人とLINEした」「今週末はドライブ」なんて話をしていると、もはや異世界の住人に思えてしまう。こっちは、LINEより登記識別情報の通知文、ドライブより法務局通いが現実だ。恋人と見つめ合う時間なんてものは、もはやファンタジー。向き合っているのは、厳格な期限と書類の山。それでも仕事として誇りはある。けれど、たまに「なんで自分だけ、こんなに人間らしい時間を持てないんだろう」と、空虚になる。
土日も誰かのために時間を空けている
「土日って、意外と依頼が多いんですよ」。そう口にした瞬間、同業の友人に「それ、サービスしすぎじゃない?」と笑われたことがある。でも、地方では平日に動けない高齢者やサラリーマンも多い。土日対応はむしろ当たり前になってしまった。気がつけば、土曜日の午後に「恋人と会う時間」どころか、「自分のためにスーパーで買い物する時間」すらない。唯一空いた時間に洗濯と掃除、それが自分の休日だ。
気づけば、自分の時間は他人のためだけになっていた
誰かの相続問題を解決することは、社会的には意義ある仕事だと思う。でも、自分の生活を振り返ってみると、何かを得るたびに何かを差し出している感覚がある。しかもその“差し出すもの”が、自分の時間や心の余裕だったりするから、始末が悪い。恋人との夕食、友人との雑談、たわいもない会話。そのどれもが、じわじわと遠ざかっていく。まるで見えない何かに、時間を少しずつ吸い取られているようだ。
司法書士という職業の“社会的孤独”
司法書士という仕事は、社会的には“先生”と呼ばれる立場にある。でも、内実はけっして華やかではない。むしろ、ひとり静かに膨大な書類と格闘する日々だ。事務所にこもって印鑑を押し、登記の間違いがないか神経をすり減らし、時には依頼者の理不尽さに頭を下げる。そんな日常の中で、「恋人と会う時間」なんて言葉は、まるで現実離れして聞こえてしまう。
世間から「先生」と呼ばれることの虚しさ
「先生、助かりました」「またお願いします」――確かにそう言われると嬉しい。けれど、その“先生”という言葉が、自分をどこか孤独にしているようにも感じる。お客さんにとって、自分はあくまで業務を処理してくれる専門家。そこに人間味は求められていない。笑顔で感謝されても、ふとした瞬間に「ああ、誰かに必要とされることと、誰かに寄り添ってもらうことは別物なんだな」と気づかされる。
「頼られている」けれど、「寄り添われて」はいない
頼られることはありがたい。でも、頼られるだけで終わる毎日は、次第に疲弊を生んでいく。「この人、よくやってくれる」と言われても、「この人、最近疲れてるみたいだね」と気にかけてくれる人はほとんどいない。自分の体調がどうか、気持ちが沈んでいないか、そんなことに気づいてくれる人がいたら、もう少しだけ頑張れる気もする。でも、それは贅沢なのかもしれない。