事務所に鳴らない電話、鳴り続ける心配

事務所に鳴らない電話、鳴り続ける心配

電話が鳴らない事務所の午後

午後の事務所に響くのは、パソコンのファンの音と、隣の事務員が押すキーボードのカチャカチャ音くらいだ。電話が鳴らない日が続くと、静けさがじわじわと胸に染みてくる。昔は「静かでいいな」と思っていたのに、今では逆に不安になる。忙しければ心配も減るはずなのに、電話の鳴らない事務所にいると、自分が必要とされていないような気持ちになるのだ。

静けさに潜む不安の正体

司法書士の仕事は基本的に「待ち」だ。誰かが困って、それを解決するために声がかかる。それがなければ仕事は始まらない。だからこそ電話が鳴らない日は、「今日は誰にも必要とされなかった」と感じてしまう。たったそれだけのことで、今日一日の自分の存在意義が揺らいでしまうのは、正直つらい。静けさが安心ではなく、不安の源になることもあるのだ。

「暇なの?」と聞かれると余計に落ち込む

「最近、暇そうですね」なんて冗談混じりに言われた日は、心にぐさっとくる。たとえ悪意がなくても、その一言で「やっぱり俺、仕事ないんだな」と再確認してしまう。暇だと余計なことを考えてしまいがちだ。どうして電話が来ないのか、このまま依頼がなかったらどうしようかと、悪い想像ばかりが膨らんでいく。

繁忙=安心という間違った価値観

いつの間にか、「忙しければ安心、暇だと不安」という図式が頭にこびりついてしまっている。これは危険な思考だ。もちろん一定の依頼は必要だが、忙しすぎて倒れそうだった日々を思い出せば、あの状態が決して健全でなかったこともわかる。心と体を壊さない範囲で仕事がある。それが理想のはずなのに、なぜか「忙しい自分」にしか価値を見いだせなくなっているのだ。

なぜか他人の目ばかり気になる

電話が鳴らないと、変な話だが「外からこの静けさが見られているような気がする」ことがある。事務所の前を通る人、近所の業者、他の士業…。誰もそんなに気にしていないと頭ではわかっているけれど、それでも気になってしまう。「あそこの事務所、最近暇そうだな」と思われているような気がして、余計に焦ってしまう。まったく、気にしすぎだ。

なぜ電話が鳴らないとこんなに心がざわつくのか

電話が鳴らない=依頼がない。それだけのことだと頭ではわかっていても、心はそれ以上に揺れてしまう。「このまま事務所が閑古鳥になったら…」「あの時もっと営業しておけば…」と、過去の選択や未来への不安が押し寄せる。ただ電話が鳴らないというだけで、思考は暴走しがちだ。

問い合わせ=存在意義という錯覚

誰かに頼られること、相談されること。それが司法書士としての自信や誇りにつながっていた。だからこそ、電話やメールの一つひとつが大事なのだ。でもその感覚が強すぎると、「相談がない=自分には価値がない」と勘違いしてしまう。これは錯覚なのだが、錯覚とわかっていても、簡単には抜け出せない。

「誰かが必要としている」感覚の中毒性

以前、毎日のように電話が鳴っていた時期があった。忙しかったが、あのときは気持ちも張っていた。誰かに頼られている感覚が、自分の支えになっていたのだ。依頼者の声があってこその日々。だがそれに慣れてしまうと、それがなくなったときのギャップが苦しい。「あの頃に戻りたい」と思っても、それがいつだったかさえ曖昧になっている。

依頼者の声が自分を支えている現実

たった一人の依頼者の「ありがとうございます」で救われることがある。書類が完成し、手続きを終え、相手が安心した表情になる瞬間。そこに自分の存在意義を見出してしまうのは職業病かもしれない。でも、その一言があるからやっていける。だからこそ、電話の沈黙が余計に重く感じられてしまうのだ。

だからこそ着信履歴がない日は怖い

一日が終わり、スマホの着信履歴を確認したとき、何もなかった日には「今日、自分は何をしていたのだろう」と呆然とすることがある。特別なことがなくても、書類を進めたり、役所に行ったり、それなりに動いてはいたはずだ。でも“誰かとつながった”実感がなければ、どこか虚しくなる。それほどまでに、私は「着信」に依存してしまっている。

それでも毎日、電話を待ってしまう

こんなに振り回されるなら、いっそ電話なんて期待しなければいいのに、結局また朝から机の上の受話器に目をやってしまう。「今日は鳴るかな」と思いながら、書類のファイルを開く。まるで恋人を待つような心境だ。鳴らなくてもいいやと思いながら、鳴らないと不安になる。これが毎日のルーティンになっている。

SNSやメールじゃ埋まらない空白

SNSやメールでのやり取りがあるとはいえ、それは受動的な反応が多い。電話のように“生の声”でリアルに必要とされる感じとは違う。ネットでの「いいね」よりも、一本の電話の方がずっと心に響くことがある。古臭い考えかもしれないが、それが自分の性分だ。電話は、私にとって人とのつながりの象徴なのかもしれない。

着信音が“今日の成果”に聞こえてしまう

電話が鳴ると、反射的に「よし」と思ってしまう。反対に、一日鳴らないと「今日は何も得られなかった」という気分になる。もちろんそんな単純なものじゃないと分かっている。だけど、耳に入る着信音が、まるで“今日の成果”を知らせるサウンドのように聞こえてしまうのだ。

「自分が止まっている気がする」あの感じ

電話が鳴らない静かな午後、ふと「自分は進んでいない」と感じてしまう瞬間がある。手を動かしているのに、心が止まっているような感覚。これは“働いてる感”を外から得ようとしすぎているせいかもしれない。自分の手応えではなく、誰かのアクションでしか動いていない気持ちが、こういう錯覚を生む。

数字では測れない心の焦り

営業成績や依頼数、報酬額。そういった「目に見える数字」が少ない日は、つい落ち込んでしまう。でも本来、司法書士の仕事には“目に見えない部分”がたくさんある。書類の正確さ、依頼者への説明の丁寧さ、事後のフォロー。そういったものにこそ価値があるのに、自分ですら数字に囚われてしまう。そして数字がないと、焦りはどんどん大きくなる。

司法書士として“鳴らない時間”とどう向き合うか

結局のところ、電話が鳴らない時間とどう付き合うかが、心の安定に直結している気がする。鳴らないこと=悪、ではないと頭で理解し、心でも納得できたら、ずいぶん楽になれるはずだ。簡単ではないけれど、「静かな日」を受け入れられるようになりたい。

依頼がない=人生が止まるわけじゃない

依頼がない日も、自分の人生は止まっていない。掃除をしたり、読書をしたり、将来のことを考えたり。そういう日も大切だと認められるかどうかが鍵だ。「鳴らないこと」を悪者にするのではなく、「今日は電話が鳴らなかったから、〇〇ができた」と思えるようになれたら、それが前進の証かもしれない。

誰かと比べることをやめると、ちょっとだけ楽になる

知り合いの事務所が忙しそうだったり、ネットで成功話を見たりすると、やっぱり焦る。自分だけが取り残されているような気がしてしまう。でも、他人は他人。自分は自分。比べるのをやめた日は、不思議と心が軽くなる。意識して比べない訓練を続けていきたい。

見えない成果と向き合う日々に意味を見出す

「今日は成果が見えないな」と思う日でも、確実に何かは前に進んでいる。データ整理、備品の補充、次の依頼への準備。すぐに評価されないものにこそ、地味だが確かな価値がある。見えない成果にちゃんと目を向け、自分で自分を認めてあげることが、今の私に必要な作業なのかもしれない。

孤独な現場で働く人たちへのエール

このコラムを読んでいるあなたも、もしかしたら電話が鳴らない静かな午後に、心細さを感じているかもしれない。そんなあなたに伝えたい。静けさは悪ではないし、不安になるのはあなただけじゃない。今日も誰かが同じように、黙々と机に向かっている。小さな声でいい、心の中で「お疲れさま」と言い合えたら、それだけで少し救われる気がする。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。