たまには逃げてもいいと思えた日が自分を救った

たまには逃げてもいいと思えた日が自分を救った

何もかもが嫌になったある日の午前十時

その日は、朝から妙に空気が重かった。天気は快晴だったが、心はどんより曇っていた。電話は鳴り止まず、パソコンのモニターには未処理の案件がずらりと並び、机の端では事務員さんが小声でため息をついている。ひとり事務所の気楽さよりも、責任の重さのほうが今日は勝っていた。司法書士って、逃げ場がない仕事だな、と改めて思った瞬間だった。

電話を取る手が震えた朝

一本の電話が鳴った。番号を見ると、ちょっと苦手な依頼者。普段なら気合を入れて出るところだが、なぜかその時は、受話器に手を伸ばす指先が震えた。声がうまく出るか自信が持てなかった。結局、取れなかった。呼び出し音が止んだ後、心臓の鼓動がやたらと大きく感じられた。「ああ、もう限界かも」とつぶやいたのは、誰に向けた言葉だったのか。

依頼者の言葉が突き刺さる日もある

「先生、ほんとにわかってます?」「プロでしょ?」。そんな一言一言が、この日は心に突き刺さった。普段なら聞き流せるような言葉なのに、今日はなぜか鋭く心を切り裂いてきた。司法書士は感情を出すな、冷静でいろ、と自分に言い聞かせてきたけれど、人間だってことを忘れてはいけないと思った。何かがちょっとずつ、確実に壊れている気がした。

誰のせいでもないけど誰かのせいにしたかった

忙しさもストレスも、全部自分で選んだ道のはずなのに、今日ばかりは誰かのせいにしたかった。依頼者、法務局、宅建業者、そして自分自身。だけど、誰を責めても心は晴れなかった。そもそも責めること自体が間違っている気もして、余計に自己嫌悪が募った。逃げ出したい。だけど逃げられない。それがこの仕事のしんどさなんだ。

事務所を飛び出して向かったのはコンビニだった

もうどうでもいい、そう思って私は立ち上がった。机の上の書類を見ないふりをして、ドアを開けて外に出た。行くあてもなかったけれど、足が自然と向かったのは近所のコンビニだった。逃げるというより、ただ「いったん止まりたかった」。そんな感じだ。ほんの10分、15分でもいいから、仕事のことを考えない時間が欲しかった。

缶コーヒーと肉まんで逃避の儀式

コンビニで買ったのは、甘ったるい缶コーヒーと肉まん。特に好きというわけじゃないけれど、なぜか今日はその組み合わせを選んだ。近くの公園のベンチに腰を下ろして、湯気の立つ肉まんをかじる。誰もいない昼前の公園。風が気持ちよかった。ふと、「これが一番のご褒美なんじゃないか」と思ってしまった自分が情けなくもあり、ちょっと誇らしくもあった。

学生時代の帰り道を思い出す

肉まんを頬張りながら、なぜか高校時代の帰り道を思い出した。練習帰り、部活がうまくいかなかった日に、自転車を押して歩いた道。夕焼けの空に向かってボールを投げるふりをしながら、悔しさをごまかしていた。あの頃の「逃げ」も、今のこの「逃げ」も、案外似ているのかもしれない。逃げることは、時に次の一歩を踏み出す準備運動なのだ。

野球部のベンチより居心地がよかった気がした

高校野球のベンチって、意外と居心地悪かった。期待と不安とプレッシャーが混ざり合った空間。あのベンチに比べたら、今座っているこの公園のベンチの方がずっとやさしい。背もたれもあるし、誰も怒らない。こんな逃避があってもいい。逃げることは悪じゃない。少なくとも、今日の自分には必要だった。

逃げたのに世界は何も変わらなかった

30分ほどして、私は事務所に戻った。留守電は3件。不在着信は5件。だけど、何も壊れていなかった。誰から怒られることもなく、世界は静かに回り続けていた。自分が思っていたほど、世界は自分のことで騒いではいなかった。ちょっと拍子抜けしたけれど、それが逆に安心感をくれた。逃げても大丈夫だったという実感が、少し心を軽くした。

留守電にも不在着信にも誰も怒っていなかった

メッセージを聞くと、「またかけ直してくださいね」とか「午後にでも結構です」といった声ばかりだった。焦って損した気分になった。自分の中では大ごとでも、相手にとってはそうでもないことって案外多いのかもしれない。自分を責める必要なんて、実はそんなにないのかもしれない。少しだけ、そう思えた。

自分が思っているほど世界は自分に興味がない

これは孤独とか寂しさとは違う。むしろ、他人の関心が自分に向いていないという事実は、ある意味で自由でもある。「やらなきゃ」と自分を追い込んでいたのは、結局は自分自身だった。誰も期待してないのに、自分が勝手に期待に応えようとして疲れていたんだ。そんなことにも気づけた。

でもそれがちょっとだけ救いだった

「期待されていない」と聞くとネガティブに感じるかもしれない。でも今の自分には、それが救いだった。好きなようにやっていいんだと思えた。走り続けるばかりじゃなく、たまには止まってもいい。むしろ、その方が長く走れる。そんなことをやっと理解し始めた。

ちゃんと戻った午後のデスク

戻ってきたデスクには、朝と同じように書類が積まれていた。でも、不思議と嫌ではなかった。むしろ「よし、片付けるか」と思えた。逃げたからこそ、もう一度向き合える気がした。少しの余白が、こんなにも心を整えてくれるとは思わなかった。次からも、しんどい日は遠慮なく逃げてみよう。そう決めた。

書類は山積みだったけど

相変わらず、不動産登記の申請書、相続関係説明図、事務所に届いたFAX…。全部が「いますぐ」な空気を放っていた。でも、さっきの自分と今の自分では、向き合う姿勢がちょっと違っていた。余裕が生まれると、優しさが戻ってくる。依頼者のことも、少しだけ思いやれる気がした。

逃げた自分を責めないことにした

少し前の自分なら、「逃げてしまった自分」を何日も引きずっていた。でも、今回は違う。逃げたことも、戻ってきたことも、全部が自分だった。どちらかが間違っているわけじゃない。バランスを取って生きるって、こういうことなのかもしれない。完璧じゃなくていい。ちゃんと戻ってきたことを褒めてあげたい。

がんばるより先に休むことも仕事だと思えた

がんばり続けることが美徳だと思っていた。でも、がんばる前に休むことも、実はすごく大事だった。特に、司法書士のような孤独で責任の重い仕事では。それに気づけただけでも、今日はいい日だったと言える気がする。明日からも、また少しだけやさしく働けそうだ。

まとめ 逃げることは敗北じゃなかった

逃げた一日が、自分を救ってくれた。司法書士としての誇りも責任感ももちろんある。でもそれ以上に、自分自身を大事にしないと、この仕事は長く続かない。逃げた日もあっていいし、むしろそういう日こそが、本当に必要だったんじゃないかと思えてくる。

同じように限界を感じている誰かへ

もしかしたら、この記事を読んでくれているあなたも、いまちょっとしんどいかもしれない。もしそうなら、どうか「逃げてもいいんだ」と思ってほしい。立ち止まることも選択肢に入れてほしい。逃げることは恥じゃない。回復の手段なんだ。

逃げた日があるから今日がある

逃げたことによって、何かを失った気がする日もあるかもしれない。でも、それがなければ今日の自分はない。あの日逃げたことを、今の自分は「正解だった」と思えている。それだけでも、あの日の自分を肯定してやれる。

そしてそれでも司法書士をやっている自分がいる

どんなに逃げても、どんなにしんどくても、私はまだ司法書士を続けている。逃げた後に戻れる場所がある。それがこの仕事のありがたさであり、自分がこの仕事を好きだという証かもしれない。たまには逃げてもいい。でも、それでも戻ってくる自分がいる。それが、何よりの救いだった。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。