やることがあるふりをしているだけかもしれない

やることがあるふりをしているだけかもしれない

忙しさの中に紛れ込んだ自分の本音

毎日、やることは山ほどある。登記の書類作成、依頼人とのやりとり、法務局への提出準備、そしてミスのないよう神経をすり減らす確認作業。その全部が「必要な仕事」のはずなのに、ふと手を止めると、自分の中にぽっかりと空いた空白に気づくことがある。忙しいというのはありがたいことで、それが生活を支えてくれる。でも最近は、その忙しさに逃げている自分がいるような気がしてならない。誰かと向き合うこと、自分の寂しさや弱さと向き合うことを、無意識のうちに後回しにしていたんじゃないか。そう思うと、ただこなすだけの作業に意味を持たせられなくなる。

タスクで埋め尽くされた一日の終わりに残るもの

一日が終わって、事務所の明かりを落とすと、どっと疲れが押し寄せる。でもその疲れは、なんというか…達成感というより、空回りした結果のような感じだ。やるべきことをこなしたはずなのに、何も前に進んでいない気がしてしまう。事務員さんには「今日もお疲れ様でした」と言われるけど、それすら申し訳なく思う時がある。たぶん自分が「やってるふり」でしかなかったからだ。昔、野球部の練習でも、声だけ出してやってる風なやつがいたけど、自分が今まさにそれに近い状態かもしれない。

「とりあえず仕事してる」で心が満たされた気になる罠

人と話したくない時、悲しいニュースを目にした時、寂しさを感じた時――僕は机に向かって「やることがあるから」と、手を動かすようにしていた。それは一種の防御反応だったんだろう。心がざわついているときに、やることがあるというのは安心材料になる。でもそれって、ただの気休めに過ぎなかったんだと、ある夜ふと思い知った。忙しさで気持ちを麻痺させて、本当に感じるべき感情をごまかしている自分に気づくのは、案外つらい。

本当に必要な作業とそうでない作業の見分け方

やることが多いというのは、ある種の錯覚でもある。すべてが緊急に見えて、全部を優先しようとしてしまう。でもそれ、本当に必要な作業か?と自分に問うてみると、惰性でやってる作業も少なくない。僕は最近、紙に優先度を赤ペンで書き込むようにしている。「これは今日じゃなくてもいい」「これは事務員さんにお願いできる」といった具合に。すると、本当に向き合うべき案件がくっきり見えてくる。そしてそれは、なぜか心の中の課題ともリンクしていることが多い。

やることがあるは本当に心を救っているか

「やることがあるから助かってるよ」と言われるたびに、胸の奥がちくりと痛む。確かに、暇で仕方ないよりはマシだ。でもそれだけでいいのか?という思いが最近強くなってきた。やることが心を救ってくれるのは、一時的な話。本当は、誰かと話したり、何かを感じたり、そういう人間らしい時間こそが、自分を支える根っこだったんじゃないか。やることに追われて、その根っこがすっかり痩せ細ってしまっている気がする。

やらなきゃいけないと自分に言い聞かせて

朝、目覚めてすぐに頭の中に「やることリスト」が浮かぶ。メールの返信、昨日依頼された相談の準備、戸籍の取り寄せ…。気づけばそのリストに自分の気持ちを挟む余地がない。まるでロボットのように「やらなきゃ」と自分を駆り立てて、感情を置き去りにしている。たまには立ち止まってもいいはずなのに、どこかで「休んだら終わりだ」と思い込んでいる。誰に言われたわけでもないのに、自分で自分を追い詰めている。

デスクに座り続けることで孤独をごまかす

土曜日の午後、予定がぽっかり空いたことがあった。本来なら、ちょっと遠出して温泉にでも行けるチャンスだった。でも僕は、なぜか事務所に来てしまった。やるべきことがあるから…という名目だったけど、実際はパソコンの前に座っていた時間の半分以上、ぼんやりしていた。孤独になるのが怖くて、仕事場という「言い訳」のある場所に逃げたんだと思う。人と会話しなくてもいい空間にいることで、自分の寂しさをごまかしていた。

気づいたときには誰とも向き合っていなかった

ある時ふと、誰とも本音で話していないことに気づいた。事務員さんとは業務の話しかしないし、友人とは疎遠になり、家族とも距離がある。「やることがある」という魔法の言葉で、すべての関係を遠ざけてきたんだと思う。気づいたときには、誰とも向き合っていなかった。依頼人とは向き合っているつもりでも、それは“業務上の姿勢”であって、人としてのつながりじゃない。寂しさに蓋をしていた自分に、ようやく気づいた。

自分と向き合うことを避けるための忙しさ

「あの人、なんであんなにずっと働いてるんだろう」と昔の僕は思っていた。でも今は、その理由が少しわかる気がする。忙しくしていれば、自分と向き合わなくて済む。失敗や後悔、孤独や未練…そういうものに直面しなくて済む。でもそれって、本当は逃げているだけなんだ。ふとした瞬間に、その全部が胸に降ってくる。そしてそのとき、自分が何も処理できていないことに、愕然とする。

元野球部だったあの頃のような練習でごまかす癖

中学高校と野球部だった。試合でエラーした次の日は、やたらと素振りを繰り返したり、無駄にランニングして「反省してます感」を出してた。でもあれ、本当は監督や仲間の視線から逃げてるだけだった。今も変わらない。何か失敗した時、気まずいことがあった時、とにかく忙しくして「やってますよ」とアピールする。でも肝心の問題とは向き合っていない。成長が止まるのも、孤立するのも当然だ。

ミスしても動き続けることで気を紛らわす

最近、登記申請でひとつヒヤッとする場面があった。幸い補正で済んだけど、内心では「やっちまった…」と冷や汗をかいた。けれど、その直後から別の案件に飛びついて、なぜか休む間もなく動いていた。反省よりも、動いてる自分を演出したかった。動き続ければ、罪悪感も反省も感じなくて済む気がしていた。でも実際は、心の中にずっとそのミスの影が残っている。逃げた分だけ、重くのしかかる。

独り身の夜に手帳をめくる切なさ

夜、ふと手帳を開いて予定を見る。「明日もやることがあるな」と少し安心する。でもその安心が、何かに似ている。空っぽの部屋に帰るときに、テレビの音が救いになるような、そんな“音”にすぎない。「やることがある」と言える状態にすがっているだけなんだ。もし明日が突然すべての予定から解放されたら、自分は何をするんだろう?…そう思った瞬間、何も浮かばないことに気づいて、少しだけ怖くなった。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。