優しさが足りなかったかもしれない件

優しさが足りなかったかもしれない件

優しさが足りなかったかもしれない件

朝、コーヒーの湯気に顔を近づけたとき、ふと「俺って最近、優しくなかったな」と思った。事務員に声を荒げた昨日の自分が頭をよぎる。忙しさを言い訳に、人の気持ちを後回しにしてきたことが、胸の中にじわじわとしみるように残っていた。地方で司法書士事務所を一人で回し、なんとかやっているつもりだったけど、それは「業務」をこなしていただけだったんじゃないか。人と向き合う優しさや余裕が、いつのまにかすっかり抜け落ちていたのかもしれない。

ふとした瞬間に蘇る一言

優しさが足りなかったかもしれないと実感したのは、ほんの些細な一言だった。ある日、事務員がそっと言った。「先生、最近ちょっと怖いです」。笑いながら言ったその言葉が、妙に胸に刺さった。何か失敗でもしたかと詰めていたのだろう。でも、それは彼女なりのSOSだったのかもしれない。あの時は、「そんなこと言ってる場合か」と突き放したが、今思えば、本当に怖かったのは、怒られることよりも、自分の感情に無関心な上司の姿だったのかもしれない。

あの時の事務員の顔が忘れられない

思い出すたびに胸が締めつけられるのは、事務員が俯いて「すみません」と呟いたあの表情だ。怒鳴ったわけでもない。ただ無表情に淡々と注意しただけ。でもその無表情こそが、彼女にとっては冷たい壁のように感じられたのだろう。あの日の帰り、彼女が足早に帰る背中がいつもより小さく見えた。その小さな背中を見て、自分の対応を振り返る余裕がなかった自分が悔しくて仕方がない。優しさとは、声のトーンや表情、ちょっとした気遣いなのだと、ようやく気づいた。

余裕がなかったのは自分だった

本当に余裕がなかったのは事務員ではなく、自分の方だった。登記の締切、顧客対応、山積みの書類……気づけば一日中、眉間にシワを寄せていた。そんな自分に誰が近づきたいと思うだろうか。優しさは、心に余白があるからこそにじみ出るもの。忙しさにかまけて、そんな大事なことをすっかり忘れていた。元野球部時代の自分なら、チームの空気を読むことに長けていたはずだ。それがなぜ、たった一人のスタッフにすら優しくできなかったのかと思うと、情けなさがこみ上げてくる。

仕事に追われて見失っていたもの

気づかぬうちに、仕事に飲み込まれていた。司法書士という職業は責任も重く、ミスが許されない。でも、それを理由に人に冷たくしていいわけじゃない。成果を出しても、人が離れていくようでは本末転倒だ。効率だけを求めていたら、誰もついてこないし、何より自分自身が疲弊してしまう。机の上は整理されていても、心の中はごちゃごちゃだった。書類よりもまず、目の前の人の気持ちに目を向けるべきだったのかもしれない。

書類は正確に出せても人の気持ちは読めない

登記簿は一文字の間違いも許されない。だから神経を研ぎ澄ませてチェックする。でも、人の感情はそう単純じゃない。「あ、この言い方まずかったかな」と思ったときにはもう遅く、相手は傷ついている。事務員に対しても、細かく指示を出すことばかりに気を取られ、彼女の気持ちを見ようとしなかった。書類のミスは直せても、感情の溝は簡単に埋められない。そう思うと、日々のやりとりがいかに大切か、身に染みる。

正論より共感を選ぶ勇気

「それはこうすべきです」という正論は、確かに必要だ。だけど、そればかり押しつけていたら、人は疲れてしまう。時には、「大丈夫だった?」「最近どう?」と声をかけることの方が、ずっと大事だ。共感は効率と相反することもあるけれど、そこを避けていては本当の信頼関係は築けない。勇気を出して弱さを見せることで、相手も心を開いてくれる。司法書士だからこそ、理屈だけではやっていけないと感じる今日この頃だ。

誰にも頼れないという思い込み

独立して10年以上、何でも自分で抱え込む癖がついてしまった。頼ると甘えだと思い込んでいた。でも実際は、周りは頼られたがっていたのかもしれない。事務員もまた、力になりたいと思っていたはずなのに、自分の堅さがその想いを遠ざけていた。助けを求めるのは恥じゃない。むしろ、信頼している証拠だということに、ようやく気づけた。人は一人じゃ仕事できない。当たり前のことが、一番忘れがちだったりする。

ひとり事務所の孤独が心を硬くする

狭い事務所で毎日同じ顔ぶれ、同じ書類。同じような登記、似たような相談内容。単調な繰り返しの中で、心が凝り固まっていくのを感じる日がある。誰かとランチに行くでもなく、世間話も最小限。無言の時間が長いと、感情のやりとりも鈍っていく。仕事は黙ってしていればいいと思い込んでいたけれど、それは効率的なようでいて、人間らしさをどんどん失わせていく。少しの雑談や笑顔が、実は心のバランスを保つ鍵だったのだ。

本当に独りだったわけではない

気づけば、事務員はずっとそばにいてくれていた。無言の時間を埋めるように、さりげない声かけをしてくれたり、自分の不機嫌にもそっと距離を取ってくれていた。彼女なりに、この職場を保とうとしてくれていたのだ。それに応えられなかった自分が情けない。独りで背負ってるつもりだったけど、実は誰かがそっと支えてくれていた。見えていなかっただけで、本当は独りじゃなかったんだ。そう気づいた時、ようやく「ありがとう」が言えた。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。