あの笑顔の裏側をつい想像してしまう自分がいる
事務所で黙々と書類を作っていた昼休み、なんとなく開いたSNSのタイムラインに、同業者が楽しそうにランチ会をしている写真が流れてきた。スーツ姿で笑い合う写真に「有志で定例ランチ会!士業も横のつながりが大事」と添えられていた。そんな投稿を見た瞬間、自分の昼飯がカップラーメンだったこともあって、妙な敗北感に包まれた。彼らが悪いわけじゃない。でも、自分との落差に胸の奥がズキッとしたのは事実だ。
同業者のSNSはなぜあんなに楽しそうなのか
自分が感じている忙しさや孤独感と裏腹に、SNSで見る同業者たちはやたらと充実して見える。セミナー登壇、出版報告、家族サービス、カフェで仕事中といった華やかな投稿が目立つ。彼らが頑張っているのは知っているし、自分も努力しているつもりだが、どうしても「自分だけ取り残されているのでは」という気持ちに襲われる。情報発信が当たり前の時代に、黙々と仕事をこなしているだけの自分が、社会から見放されているような気さえしてくる。
仕事も順調に見えるしプライベートも充実してそうに見える
先日は「年間〇件達成しました」と満面の笑みでアップしていた同年代の司法書士がいた。しかも横には子どもと奥さんの姿まで。自分ときたら事務員一人と毎日ギリギリで回して、夕飯はスーパーの惣菜か、冷凍チャーハン。誰かに自慢するような実績もなく、家庭もなく、ただ日々を消化している。そんな比較を無意識にしてしまい、自分の人生って何なんだろうと考え込むことがある。SNSの投稿にはリアル以上の魔力がある。
投稿ひとつで勝手に落ち込むのはおかしいのか
他人の投稿に感情を振り回されるのは馬鹿らしい、そう思う。けれど、実際には一枚の写真やひとことの文面に心を乱されてしまうのが人間だ。とくに孤独を感じているときや、仕事でうまくいっていないときはなおさらだ。そんなときは「羨ましい」では済まず、自分を否定する気持ちが湧いてくる。SNSは本来、情報共有や人とのつながりの場のはずなのに、気づけば自分を責める材料になっている。滑稽だけど、それが現実だ。
実際に会ったら案外普通だったりする
実は、SNSでキラキラしていたある同業者と研修会で会ったことがある。正直に言えば、少し身構えていた。しかし実際に会ってみると、彼も疲れた顔をしていて、「最近寝れてないんですよ」と苦笑いしていた。投稿にあった華やかさと、実際の本人のギャップに、拍子抜けしたような安堵したような気持ちになった。そのとき、画面の向こうだけを見て自分を追い込んでいたのは、結局自分自身だったと気づかされた。
SNSと現実の乖離を受け入れることの難しさ
人は自分の一番良い面を見せたい生き物だ。SNSはその性質と相性が良すぎる。だからこそ、そこに映る姿はリアルではないと頭ではわかっていても、感情は騙されてしまう。楽しそうな笑顔の裏に、どれだけのプレッシャーや不安が隠れているかは、画面ではわからない。現実の一部を切り取っただけの投稿に一喜一憂するのは無意味だとわかっていても、それを受け入れるのは本当に難しい。
投稿の裏には努力やしんどさがあるのかもしれない
キラキラしているように見える投稿の陰には、努力や苦労があると考えたほうが自然だ。華やかな成果の裏には、夜遅くまでの作業やクレーム対応、家庭とのすれ違いがあるかもしれない。SNSに映らない部分にこそ、人としての深みや苦しみがある。自分だって、見せたくない瞬間を抱えている。そのことを忘れずにいると、他人の投稿に対して冷静でいられるようになった。
自分と他人を比べる癖が抜けない
比べても意味がないとわかっていても、人と比べてしまう癖はなかなか抜けない。特に同じ司法書士という土俵に立っている相手だと、数字や働き方、生活レベルまでも無意識に比べてしまう。成績もランクもないこの業界で、自分の立ち位置を確かめるために、他人を鏡にしてしまっているのだ。そんな比較が心を削る原因になっていると、ようやく最近になって気づいた。
司法書士は数字に追われるから余計に比較がしんどい
司法書士は「件数」や「売上」といった数字がどうしても評価の軸になりがちだ。成績表のように貼り出されるわけではないが、SNSや業界内でのうわさ話から「誰がどれだけ稼いでいるか」が耳に入ってくる。そうした情報はプレッシャーになる一方で、比較の材料にもなってしまう。かつて野球部だった頃のような勝ち負け意識が残っているのかもしれない。でも、仕事は試合じゃないはずだ。
同じ月に売上がゼロだったとしても誰も気づかない
売上が立たなかった月でも、誰かが叱ってくれるわけではない。むしろ、誰にも知られずひっそりと過ぎていく。その静けさが逆に重たくて、自分で自分を責めてしまう。「こんなんじゃダメだろ」と思いながらも何も変わらず、またSNSで成功者の投稿を見て落ち込む。そのループが続くと、本当に心が疲れてくる。孤独とプレッシャーの両方がじわじわ効いてくるのが、この仕事の怖さだ。
見えないプレッシャーが心をじわじわと蝕む
誰からの指示も叱責もない分、自分で自分を追い込んでしまう。それがフリーランスの怖さでもあり、司法書士という職業の特性かもしれない。責任感が強い人ほど、知らず知らずのうちに自分に高いハードルを課してしまう。SNSでの成功報告や楽しそうな日常を見れば見るほど、自分は足りていないと感じてしまう。だが、その「足りなさ」に気づけるのも、自分の成長に繋がる第一歩なのかもしれない。
SNSを離れてみたら気づいたこと
ある日ふと、SNSのアプリをスマホから消してみた。最初の数日はそわそわしたが、徐々に心が穏やかになっていくのを感じた。他人の投稿に心を振り回されなくなっただけで、こんなにも自分の時間が軽くなるのかと驚いた。毎日投稿を追いかけていた時間を、本を読んだり散歩したりする時間にあてると、自分を見つめ直す余裕も出てきた。SNS断ちは、想像以上に心のデトックスになった。
情報を遮断すると心が少し静かになる
四六時中スマホを覗いて、誰かの活動を追いかけていた頃は、常に「自分も何かやらなきゃ」という焦りに追われていた。情報を遮断すると、その焦りがすっと消えていった。誰かと比べる必要もなく、今やっていることに集中できる。これは、努力をサボるという意味ではない。むしろ、自分のペースで丁寧に仕事に向き合うための選択だった。情報に溺れず、自分のリズムを取り戻すことの大切さに気づけたのは大きい。
誰の目も気にせず自分の時間を過ごせるように
SNSを見ていると、どうしても「誰かに見られている自分」を意識してしまう。でも、アプリを消してからは「自分がどうしたいか」が基準になった。休日も無理に出かけたり写真を撮ったりせず、好きなように過ごす。朝起きて散歩して、コーヒーを飲んで事務所に向かう。その何気ない日常に、小さな幸せを感じられるようになった。他人の視線から解放されて、自分の時間がやっと戻ってきたように感じた。
無理に繋がらなくても仕事は回ると分かった
SNSをやめたら仕事が減るかと思っていたが、実際には何も変わらなかった。そもそも、紹介や地元のつながりで回っている案件が多い自分の事務所には、SNS映えする投稿よりも、信頼と丁寧な仕事の方がよほど重要だった。無理にSNSで発信したり、繋がりを作ったりしなくても、自分のスタイルで十分やっていける。その気づきは、自分を肯定するための大きな一歩になった。