頼りにしてますが冗談じゃないほど心に刺さる日

頼りにしてますが冗談じゃないほど心に刺さる日

頼りにしてますの一言が胸に響いた午後

仕事が立て込んでいたある日の午後、事務員の女性がポツリと「先生、頼りにしてますよ」と言った。その一言で、なぜか喉の奥が詰まるような感覚になった。誰かに頼られているという実感、それがこんなにも重く、そして少しだけ温かいものだとは思ってもみなかった。日々の業務に追われ、「自分じゃなくてもできる仕事じゃないか」と思っていたけれど、その言葉で少しだけ立ち止まることができた気がした。

言われ慣れていない言葉が不意にくると弱い

「頼りにしてます」なんて言葉、普段の生活で滅多に聞くことはない。少なくとも独身で、女性との接点もほぼない僕のような男には、あまりにも縁遠い言葉だ。だからこそ、突然のその一言は心の奥にスッと入り込んできて、嬉しいというより戸惑いに近い感情を抱いた。正直、恥ずかしいというか、どう返せばいいかわからなくて、変にニヤけてしまった自分がいた。

普段は淡々とこなすだけの仕事

司法書士の仕事は地味だ。登記や書類作成、期限に追われる毎日。ミスが許されないというプレッシャーのなかで、感情を挟む余地なんてない。誰かから感謝されることもあまりないし、「うまくやって当たり前、失敗すれば非難」という空気が常に漂っている。そんな日々の中で、仕事を“こなす”ことだけに集中していた。

誰にも評価されないと思っていた

どれだけ頑張っても、報われる実感は少ない。書類を完璧に仕上げても「ありがとう」さえ言われないことがある。それが当たり前と思っていた。だから「頼りにしてます」の一言には、評価されたというよりも「存在を認められた」ような気持ちになった。これだけで、心の中で何かがじんわりと溶けていくような感覚に包まれた。

頼られることが嬉しいはずなのに疲れる理由

頼られるのは確かに嬉しい。でも、それが続くとだんだんと重く感じてしまうことがある。自分にしかできないと思われていることが増えるたびに、「自分が倒れたら終わりだ」と不安になる。たった一人の事務員に支えられながら、すべてを背負う覚悟が求められる。その覚悟が、時に心をすり減らす。

責任と期待に押し潰されそうになる

「先生なら大丈夫ですよ」と言われるたびに、プレッシャーを感じる。「ミスしない人」として扱われることは、逆に「ミスできない人」になるということ。過去に一度だけ、登記のミスでお客様に迷惑をかけてしまったことがある。その時の自己嫌悪と眠れぬ夜を思い出すたび、頼られる重みを痛感する。

頑張っても当たり前という空気がある

この業界では、「できて当然」という無言の圧力がある。特に地方では、紹介が多く、人間関係が狭いため、評判がすぐに広まる。だからこそ一つ一つの仕事に手を抜けない。しかし、評価されることもなく、ただ淡々とこなしていくと、やがて「自分なんかいなくてもいいのでは」という思いに飲まれてしまう。

一人事務所の孤独がじわじわ効く

事務員が帰ったあとの静かな事務所。電気の音とキーボードのカチャカチャ音だけが響く空間。こういう時間が一番つらい。誰とも話さない時間が続くと、仕事の意味すら見失いそうになる。SNSを見れば他人の成功が目に入り、劣等感だけが積もっていく。そんな夜は、仕事机に突っ伏してため息をつくしかない。

司法書士という職業の見えない重さ

外から見れば「資格職」「先生」と呼ばれる司法書士。でもその内実は、細かな確認作業と責任に追われる日々だ。名刺の肩書きがどれだけ立派でも、実態は「何でも屋」そのもの。そんな自分に時折嫌気が差し、ふと「他の道を選んでいたら…」と思ってしまう夜もある。

先生と呼ばれることに慣れない

「先生、これお願いします」と言われても、心の中では「自分にそんな器あるか?」と思ってしまう。学生時代、元野球部で泥だらけになっていた自分が、今ではネクタイを締めて偉そうにしている。そう思うと、どこか居心地の悪さを感じる。肩書きが自分に追いついていない気がするのだ。

実態は雑務も含めた何でも屋

相談対応、登記業務、郵送手配、請求書発行、銀行対応…。司法書士の仕事は、表に出ない雑務が山ほどある。お客様から見えるのはほんの一部で、その裏で膨大な処理作業がある。「え、まだそんなことまで先生がやってるんですか」と驚かれることもあるが、実際そうしないと回らないのが現実だ。

士業らしさより便利屋感

「とりあえず先生に聞けばなんとかなる」と思われている節がある。時には隣町の司法書士事務所の不手際の尻ぬぐいを頼まれたこともあった。断れずに引き受けてしまうのも、性格かもしれないが、そうやって便利屋扱いされていく自分がどこか情けなく感じる。

責任感と自己否定のせめぎ合い

「自分がやらねば誰がやる」という責任感と、「自分なんてどうせ大したことない」という自己否定。この二つの間を毎日揺れ動いている気がする。特にひと段落した夕方、静かな時間になると、そういう思考が顔を出してくる。自分で選んだ道だと分かっていても、時には自分を責めてしまうことがある。

ミスは絶対に許されないという思い込み

司法書士は「ミスの許されない仕事」の代表格だ。訂正はできても、信用の失墜は取り返せない。だから何度も何度も確認し、慎重に進める。けれどその一方で、完璧を目指しすぎて、自分を追い込んでいるのも事実。誰よりも厳しい目で自分を見てしまうのだ。

自分のキャパが信用と直結してしまう現実

忙しいときに断れば、「あそこは頼れない」と言われる。不器用だからこそ、一つの仕事に時間がかかる。でもそれが信用を落とすことにつながってしまうことが怖い。キャパオーバーになる前に限界を伝えたいけど、地方の狭い業界ではなかなか難しい。気づけばいつもギリギリのラインで綱渡りしている。

頼られることが心の支えになる瞬間

とはいえ、やっぱり「頼りにしてます」の一言には救われる。疲れ切った身体でも、その言葉があるだけで、不思議ともうひと頑張りできてしまう。感謝の言葉は、どんな栄養ドリンクより効く。忙しさに埋もれそうになっても、その一言だけで立ち直れる日がある。

何気ない一言に救われた過去

思い返せば、高校時代、野球部のキャプテンに「お前がいないと勝てなかった」と言われたあの時も、人生で初めて誰かに必要とされたような気がした。そして今でも、たまに事務員が「先生いてくれてよかった」と呟くと、それだけでその日の疲れが少しだけ薄れるのだ。

野球部時代のお前がいないと無理だった

補欠で目立たなかった僕に向けられたあの言葉は、今でも心に残っている。「声出してくれるから助かる」「守備の声かけがあると落ち着く」そんな些細なことでも、必要とされることの力を教えてくれた。あれがあったからこそ、今も人の役に立ちたいと思えるのかもしれない。

事務員さんの先生がいるから安心

うちの事務員は口数が多い方ではないけれど、ある日ぽつんと「先生がいてくれると安心なんですよね」と言ってくれた。なんでもない会話の中で出た一言。でもその言葉を胸に抱えながら、また明日もやっていける。そんな風に支えられているのは、僕の方なのかもしれない。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。