どこで泣けばいいのか分からない夜に

どこで泣けばいいのか分からない夜に

一人で背負い込む夜に思うこと

この仕事、ひとりでやるにはあまりにも重いと感じる夜がある。依頼人のために、法務局とのやりとり、登記のチェック、説明責任。すべてが終わるころには日付が変わっている。そんな日でも、朝にはまた依頼人が来る。話を聞き、解決策を提示し、安心させなければならない。「プロとして当然」と言われればそれまでだけれど、感情を押し殺して一日中「大丈夫です」と言い続けるのは、正直しんどい。誰かに「今日は頑張ったね」とただ言ってほしい。それだけで、少しだけ気持ちが楽になるような気がするのに。

頼れる人がいないときの無力感

相談できる相手がいないというのは、想像以上に心細い。事務所を一人で切り盛りしていると、何かトラブルが起きても「自分でなんとかしなきゃ」と思ってしまう。実際、事務員さんに負担をかけたくなくて、愚痴ひとつ言えずに飲み込んでしまうことも多い。そんな日々が積み重なると、ふとした瞬間に涙が出そうになる。でも、泣ける場所も、泣いていい時間も、見つからない。

「がんばってるね」と言われたいだけだった

ある日、法務局の窓口で一緒になった同業者が「最近忙しいよね」と笑って話しかけてきた。そのたった一言で、どれだけ救われたか。頑張ってることを誰かに認めてもらえるだけで、人ってこんなにも気持ちが軽くなるんだと実感した。別に特別な言葉じゃなくていい。ただ、「ちゃんと見てるよ」っていうサインがあれば、それで救われることもある。

孤独と責任感は比例する

独立してから、誰にも頼らずにやってきたという自負はある。でもそれが、逆に自分を縛っていたんだと最近思うようになった。「自分がやらなきゃ」「失敗できない」そんな責任感が、自分の首を締めていた。孤独と責任感は、まるでセットのように重なって心にのしかかる。誰かと仕事を分け合えたら、どんなに救われるだろうか。

愚痴さえ言えない職場の空気

事務員さんはとてもまじめで、いい人だ。でも、だからこそ愚痴が言えない。「先生、最近しんどそうですね」と言われた日には、「大丈夫、大丈夫」と空元気で返してしまう。変に気を使わせたくない。そう思って言葉を飲み込む。それが続くと、心の奥底にモヤモヤが溜まっていく。どこかで出さなければ爆発するって、頭ではわかってる。でも、吐き出す場所がない。

事務員に心配かけたくないという優しさ

たとえば、少ししんどい日があっても、事務員さんにだけは見せたくないと思ってしまう。というのも、彼女は本当に気が利くタイプで、少しでもこちらが元気がないと、手伝ってくれようとする。でもそれが逆に申し訳なくて、ますます「元気なフリ」を続けてしまう。優しさって、時には自分を追い込む道具になる。

「男なんだから強くあれ」という呪縛

男は泣くな、弱音を吐くな。昭和生まれの男が刷り込まれてきたこの価値観、今でも自分の中に根強く残っている。元野球部だった頃、負け試合で涙をこらえていた自分を思い出す。「泣いてるヒマがあったら練習しろ」と言われ続けた。あれは確かに一理あるけど、今の自分には合っていない。でも、抜け出せないまま、今もその呪縛の中にいる。

元野球部だった自分が泣き言を言えない理由

「辛いなら辞めればいいじゃん」と言われても、それができないのがこの仕事。司法書士という肩書きを背負って、相談者の前では常に冷静で、頼れる存在でなければならない。元野球部で鍛えた「我慢」や「気合い」で何とか乗り切ってきたけれど、それが今の自分を苦しめているとは、気づかないふりをしてきた。

「我慢は美徳」だった昭和の教え

中学・高校と野球部にいたころ、「痛いって言うな」「辛いのはみんな一緒だ」そんな言葉を耳にタコができるほど聞かされた。そうやって、我慢することが当たり前になっていった。でも社会に出てみると、我慢しすぎた結果、何も感じなくなることの方が怖いと気づく。感情を出すことは、弱さじゃない。けど、それが身体に染みついていない自分には難しい。

ベンチでも泣かなかったあの日の癖

高校最後の試合でサヨナラ負けを喫したとき、チームメイトは泣いていた。でも、自分は泣けなかった。悔しいのに、涙が出ない。「キャプテンだから泣くな」「お前が泣いたら終わりだ」そう言われてきたから。今でもその癖が抜けない。悔しい時、辛い時ほど、無表情になってしまう。

弱音を吐くことへの強い抵抗感

電話の後、机の下でこっそり深呼吸することがある。誰にも見られたくない瞬間。あの瞬間に「もう無理かも」と思っても、言葉にはしない。弱音は口にした瞬間、現実になってしまう気がするから。心のどこかで、「耐えてさえいれば、また朝が来る」と信じている。でも、時にはその朝が、永遠に来ないように感じる夜もある。

弱音を吐ける場所を自分で作るという発想

もう誰かに期待するのはやめた。誰かが「弱音を聞いてくれる場所」を作ってくれるわけじゃない。だから、自分で作るしかないんだ。最初はノートだった。誰にも見せない、自分だけの弱音のメモ帳。そこに書いているうちに、少しずつ気持ちが楽になる。弱音は出してしまえば、案外ちっぽけな存在だったりする。

人に話すことで整理される不安

最近、同業者の集まりに少しだけ顔を出すようにしている。お酒の力も借りながら、「最近、どう?」って言葉から始まる会話に救われる。同じような悩みを持つ人と話すことで、自分だけじゃないんだと実感できる。話しているうちに、自分が何を抱えているのかも整理されていく。不安は誰かと共有すると、形を変えていく。

匿名のSNSが救いになることも

Twitter(今はXとか言うらしいけど)で、同じような司法書士がポロっと弱音を吐いているのを見ると、ちょっと安心する。自分も、アカウントを作って、たまに「疲れた」とか「今日もなんとかなった」とか、つぶやくようになった。顔も名前も出さずに、心だけちょっとだけ出せる場所。それだけで、救われる。

日記というささやかな逃げ道

毎晩、寝る前にノートに2〜3行だけ書いている。「今日も頑張った」「疲れたけどミスなく終えた」たったそれだけ。でも、自分を褒める言葉を自分に向けて書くと、不思議と安心する。誰にも見せない、自分だけの逃げ場所。忙しい毎日の中で、唯一「泣いてもいい」自分に戻れる時間だ。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。