SNSを見るのがつらいと感じる日のこと

SNSを見るのがつらいと感じる日のこと

SNSが疲れる瞬間は突然やってくる

普段は何気なく見ているSNSも、ある日ふと「しんどいな」と思ってしまう瞬間がある。仕事が立て込んでいるときや、思うように進まないとき、そんな日に限って誰かの「成功」や「幸せ」の投稿が目に入ってくる。自分が停滞していると感じている時に、誰かの前進を見せつけられると、どこか置いてけぼりにされたような気持ちになる。実際にはそんなつもりで投稿しているわけじゃないのはわかっている。でも、こちらの心の調子が悪いと、どうしても素直に受け止められない。

気づいたら心がざわつく

自分でも思う。なんでこんなに反応してしまうんだろうって。でも、やっぱり心は動いてしまうものだ。他人の投稿を見て、心がざわつく。焦る。置いていかれているような、取り残されているような、そんな感覚になる。「そんなに他人と比べるな」と言われたって、比較は勝手に始まってしまうものだ。

他人の幸せが刺さるとき

ある日、同年代の知り合いが「結婚しました」と投稿していた。祝福の気持ちももちろんある。でも、自分がその投稿を見たのは、ひとりでコンビニ弁当を食べながら夜遅くまで残業していた日だった。あのとき、なんとも言えない気持ちが胸に詰まった。自分は何をやってるんだろうって。

いいねの数に差を感じてしまう

くだらないことだとわかっていても、やっぱり見てしまう。自分の投稿に10件しか「いいね」がついていないのに、知人の投稿には100以上。そこに価値があるわけじゃないけれど、無視できない。いいねの数に、社会的評価や人気、承認が投影されているように感じてしまうのだ。

見ない方がいいとわかっているのに

「SNSなんて見なきゃいいじゃん」と言われる。でも、それができたら苦労はしない。むしろ、意識しないとつい開いてしまっている。無意識に開いて、そして傷ついている。この流れを何度繰り返したことか。

指が勝手にSNSを開いてしまう習慣

気づいたらTwitterを開いている。Instagramをスクロールしている。ほんの休憩のつもりが、30分、1時間と時間を食いつぶしている。そして何も得られず、逆に疲れている。スマホ依存という言葉が刺さる。

「自分は何をしてるんだろう」と思う夜

寝る前にふとSNSを覗いてしまい、そこに並ぶキラキラした日常に打ちのめされる。布団の中でスマホを持ったまま、「自分は今日、何をしたんだろう」と虚しくなる。そんな夜が、月に何度かある。

司法書士という職業の孤独

司法書士は表面的には「頼られる仕事」だ。実際、多くの人の人生の節目に関わる。でもその実態は、ひとりで淡々と書類と向き合う日々。相談されるけれど、自分が相談する場は少ない。そんな孤独が、ふとした瞬間に重たくのしかかってくる。

相談されるけど相談できない

お客様にはいつも落ち着いて対応し、信頼されることを求められる。でも、こちらも人間だ。誰かに弱音を吐きたいときだってある。けれど「先生」と呼ばれる肩書きが、それを許さない雰囲気をつくってしまっている。

何でも知ってると思われがちなつらさ

「これって、どうすればいいんですか?」と、当たり前のように聞かれる。それが仕事だ。だけど、ときには答えが出せずに悩むこともある。それでも「わかりません」と言えないのが現実。プレッシャーは積もっていく。

愚痴も吐けない閉じた日常

事務員には気を遣うし、同業者には弱音を見せたくない。結局、愚痴は胸の中に溜めるしかない。でも人間だから、どこかで吐き出したい気持ちはある。だからこそ、SNSが心の逃げ場になることもあるけれど、そこにまたダメージを受けるという矛盾。

地方だからこその閉塞感

都会ならば気軽に集まれる仲間もいるのだろう。でも地方では、そもそも人付き合いが限られている。気分転換しようにも、選択肢が少ない。そして、どこへ行っても誰かに見られているような感覚がある。

誰とつながっても狭い社会

たとえば同業者とSNSでつながったとしても、その関係性が仕事に影響しそうで、本音が書きにくい。誰が見ているかわからない小さな社会の中では、自分をさらけ出す場が少ない。

地元コミュニティの視線と距離感

顔見知りが多い町では、日常の一挙手一投足が意外と見られている。「○○先生があそこにいたらしいよ」と噂が立つこともある。だからこそ、自由に振る舞うことが難しく、ストレスが蓄積されやすい。

SNSから離れる勇気

そんな日々の中で、少しだけでも心を守る手段として「距離を取ること」を覚えた。SNSを閉じて、リアルな空気に触れる。それだけで、不思議と気持ちが楽になる瞬間がある。

スマホを置いて散歩してみる

ある休日、意を決してスマホを家に置いて、近所を散歩してみた。川沿いの風が心地よくて、花が咲いているのを久しぶりにちゃんと見た。誰にも「いいね」されなくても、自分が心地よいと感じられる時間が、確かに存在する。

目に映る風景が変わってくる

スマホの画面を通してではなく、自分の目で景色を見る。そうすると、普段見えていなかった小さな変化に気づくようになる。そういう感覚が、少しずつ心の傷を癒してくれた。

小さな感情の回復が始まる

特別なことをしなくてもいい。無理にポジティブにならなくてもいい。誰かと比べることをやめて、自分の感情と向き合ってみるだけで、回復の兆しは見えてくる。SNSを遠ざけた時間が、そのきっかけになってくれた。

本音を書ける場を見つける

結局、人は誰かとつながっていたい生き物だと思う。だからこそ、共感してもらえる場所が必要だ。見栄でも承認欲求でもなく、自分の弱さを受け止めてくれる場。そんな場所を、少しずつでも見つけられると救われる。

誰かのためじゃなく自分のための言葉

この文章も、誰かのために書いているようで、自分自身への言葉かもしれない。書くことで、心が少し軽くなる。吐き出すことで、自分の気持ちを整理できる。誰にも読まれなくても、それでいいと思える。

たった一人でも共感してくれる人がいれば

SNSの海に埋もれてしまうような小さな投稿でも、どこかで誰かが見てくれているかもしれない。もし、それがたった一人でも、自分の言葉に共感してくれたなら、それだけで報われる気がする。だから、今日も自分の言葉を大切にしたい。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。