墓じまいを考えたとき、自分の老後が見えてきた

墓じまいを考えたとき、自分の老後が見えてきた

親の墓じまいを終えて、思わず立ち止まった

先日、父母の墓じまいを終えた。田舎の山間にひっそりとある寺院で、ひとり手続きを済ませ、僧侶の読経を聞きながら「終わったな」と呟いた。その瞬間、胸にぽっかりと空洞ができたようだった。これで親の務めは果たしたのだと思う一方で、「じゃあ自分の番はいつ来るんだろう」と、妙に冷静に未来を見てしまった。お墓の整理は過去を閉じる作業であると同時に、未来を直視せざるを得ない行為でもあった。

「これでひとつ、肩の荷が下りた」はずだったのに

親の面倒は見てきたつもりだし、法要やら供養やらもきちんとやった。それでも、墓じまいを終えたときに感じたのは、安堵ではなく不安だった。「もう親はいない。これからは自分の番だ」と、誰にも言われていないのに勝手にバトンを渡されたような気分だった。人の死を見送る仕事をしていながら、自分自身の最期についてはずっと目を逸らしてきたことに気づいた。

兄弟はいない、相談する相手もいない

私はひとりっ子で、親戚づきあいも希薄だ。親が亡くなったときも、通夜に来てくれたのはほんの数人。今回の墓じまいも、誰とも相談せずに自分で決めた。そんな自分が、いざ老いたときに誰かに相談できるだろうか? いや、そもそも誰が自分の相談を聞いてくれるだろうか。司法書士という職業柄、人の相談を受けることには慣れているけど、相談する立場になることにはどうも慣れそうにない。

感情の置き場所が、どこにもなかった

手続きは粛々と進めた。書類を整え、寺に挨拶し、永代供養の申し込みを済ませた。でも、それで気持ちに区切りがつくかというと、まったくそうではなかった。事務的な処理をすればするほど、逆に心の奥底に湧き上がってくる寂しさや虚無感に耐えきれなくなった。泣く理由も怒る理由もない。ただ、なんだかぽっかりと空いた心の穴を、どう埋めていいのかわからなかった。

お寺の本堂でひとり手を合わせた午後

静まり返った本堂の畳に座り、線香の煙をぼんやりと眺めていた。目を閉じると、父と母の顔が浮かぶ。生前、もっと感謝の言葉を伝えればよかったと悔やみながらも、今さらもう遅いと自分に言い聞かせていた。遺影はすでに納骨堂に納められ、そこに語りかけても返事はない。目の前にあるのは木札と花だけだった。その無言の存在が、逆にいろんなことを語りかけてくるようだった。

住職の言葉に救われてしまった自分

「ご先祖さまは、心の中で生きてくれるんですよ」。読経が終わったあと、住職がぽつりとそう言った。決まり文句かもしれない。でも、それが妙に心に染みた。私は普段、理屈で物事を処理している分、そういう“心”の話に弱い。ふだん顧客には言わないようなことを、逆に自分が言われて、ほっとしたのか、なぜか涙が出てきた。住職の背中を見ながら、「この人の言葉に救われてしまった」と思った。

誰にも言えないけど泣いた

帰りの車の中で、ふと涙が出てきた。ハンドルを握りながら、自分でも驚いた。誰にも見られていないのをいいことに、声を出さずに泣いた。こんなに泣いたのはいつ以来だろう。あれは感情の爆発というより、心の排水のようなものだったのかもしれない。司法書士という立場上、感情を抑えて生きてきたけど、それが知らないうちに蓄積されていたのだと気づいた。

ふと頭をよぎる「自分の後始末は誰がする?」

墓じまいという他人事のような作業を終えた途端、今度は「自分の番」が来たときのことを考えるようになった。親のように誰かが見送ってくれるだろうか。いや、そもそもその「誰か」はいるのだろうか。自分が亡くなったとき、事務的な処理はどうなるのか、誰が行うのか、あるいは放置されるのか。こうして文章にすると滑稽かもしれないけれど、本気でそう考えてしまった。

相続登記は誰に頼めばいいのか

司法書士である自分が、自分の相続登記を自分でできるわけもない。では、同業の誰かに依頼するのか? でも、そんな「親しい司法書士仲間」など、私にはいない。表面上のつきあいはあっても、心から頼れるような人はいない。そう思うと、いざというとき本当に困るのは、他ならぬこの“自分自身”だということに、じわじわと恐怖を感じた。

笑えない冗談が現実になる瞬間

昔、先輩司法書士が「俺の死後は自分で登記して成仏するわ」と冗談を言っていたが、今となってはその冗談が少しも笑えない。自分の死後、登記や遺産の処理が滞ることで、迷惑をかける可能性すらあるのだ。誰かに託すにも、準備が必要だし、信頼関係もなければ難しい。本当に、自分の人生の終わり方まで考えねばならない歳になったんだなと、苦笑いすら出なかった。

独身、子なし、友人も少なめ

私は独身で子どももいない。職場の事務員とは仕事の話しかせず、友人も年々減っていくばかりだ。気づけばプライベートで連絡を取る相手は、スマホの連絡帳の中でも上のほうには表示されない存在ばかりになった。法定相続人も遠縁に数人。葬式のとき、誰が来てくれるのか、まるで想像がつかない。

もしものとき、葬式を出す人もいない

それこそ、本当に倒れたらどうなるのだろう。役場の福祉課か、葬儀社が事務的に処理して終わりかもしれない。それを「可哀そう」と思う感情すら薄れてきている自分がいる。おかしいのは、自分が司法書士として何十件もそういった案件に関わってきたのに、そのときは感情を挟まず淡々とやってきたのだ。いざ自分がその立場になると、何かやり残した気持ちに取り憑かれる。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。