朝のポストと一通の転居届
朝、事務所のポストを覗くと、役所からの郵便に混じって見慣れない封筒が一通あった。転送不要と赤いスタンプが押されたその封筒は、すでに閉鎖されたと聞いていた物件のものだった。
封筒を開けると、そこには転居届の写しが入っていた。差出人は「中村葵」。見覚えのある名前だ。以前、相続登記の件で一度だけ関わったことがある。
しかし奇妙なのは、転居先が空白になっていたことだった。通常なら見落とすような書類だが、何か引っかかる。小骨が喉に刺さったような違和感。
書類の束に紛れていた違和感
「シンドウさん、これ……変ですね」とサトウさんが言った。僕がボンヤリと書類を見ている間に、彼女はすでに異変に気づいていた。
転居届の下に、別の住所がメモされた紙が一枚。古い住所ではない、新しい転居先とも違う。中途半端に書かれた番地の先には、まるで誰かの手が途中で止まったような、掠れた筆跡があった。
それがこの事件のはじまりだったと、後に気づくのだが、そのときの僕は「よくある書類の不備」程度にしか思っていなかった。
差出人の欄に書かれた古い住所
差出人の欄には、すでに取り壊されたはずの木造アパートの住所が書かれていた。たしかに、中村葵はそこに一時期住んでいたが……。
「この住所、もう存在しないはずです」サトウさんが画面をスクロールしながら物件情報を見せてくる。「昨年の台風で倒壊。建物ごと更地になったって記録があります」
現に登記簿謄本には「滅失」の記録があった。だとすると、なぜこんな住所が今さら届出に使われているのか? 誰が、何のために?
白い猫が見つめる家
その日の午後、僕は転居届にあった古い住所へ向かった。更地になっているとわかっていながらも、どうしても確かめたかった。
すると、そこには一匹の白い猫がいた。人懐っこい様子で近寄ってくるが、僕が一歩進むとピタリと足を止めた。まるで、ここは自分の縄張りだとでも言いたげに。
「……お前、ここの主か?」そうつぶやいたとき、猫は静かに背を向け、裏路地へと歩き出した。
近所でも有名な人懐っこい猫
近隣住民に話を聞くと、この白猫は「シロ」と呼ばれ、以前の住人たちに可愛がられていたらしい。とくに中村葵とは仲が良かったそうだ。
「最近も毎日この辺にいるんですよ。不思議ですよね、もう誰も住んでないのに」
猫は、今はもう存在しない家を毎日見上げている。まるで、誰かの帰りをずっと待っているように。
いつも同じ家の前でうずくまる
裏手のブロック塀の上に、猫は静かに座っていた。目線の先は、まさに取り壊された家の跡地だった。
僕は何気なくスマホで写真を撮った。が、その画面に、奇妙なものが映っていた。更地の一角、まるで地面が掘られたようにわずかに土の色が違う。
「……なんだこれは」思わずつぶやき、気づくと白猫がその上に乗っていた。
依頼人の不在と謎の電話
事務所に戻ると、一本の留守電が入っていた。再生ボタンを押すと、女性の声が途切れがちに響く。「…中村…届…間違え…助け…」
電波の悪い場所からのようだったが、間違いなく彼女の声だった。だが、着信履歴は非通知で、折り返す術はなかった。
「やれやれ、、、また面倒な匂いがしてきたな」思わず、帽子を掻きながら僕はつぶやいた。
依頼は済んだはずの登記変更
中村葵の案件はすでに完了していた。建物滅失登記、土地名義の変更。関係書類はすべて法務局から受理済みの印がある。
それでも、彼女はどこかで生きていて、何かを伝えようとしている。転居届は、その“伝言”のはじまりだったのかもしれない。
そう思うと、居ても立ってもいられなかった。
発信元はすでに空き家だった
調査の結果、着信があったと思われる住所を特定した。地番で照会をかけると、市内の古い住宅街の一角だった。
現地に赴くと、そこは人の気配のない一軒家。だが、ポストには新しい新聞が差し込まれていた。誰かが、ここに“住んでいるふり”をしている。
鍵はかかっておらず、扉を開けると、薄暗い廊下の奥に白猫がいた。僕を見つめるその目に、なぜか涙が浮かんでいるように見えた。
サトウさんの冷静な分析
「それ、たぶん居住実態の偽装です」帰所して事情を説明すると、サトウさんは即座に答えた。
「おそらく登記や住民登録の不一致を利用した何か、たとえば不動産詐欺か、保証人関係の偽装か…」
僕があの猫に心を動かされている間に、彼女は着々とパズルのピースを集めていた。
登記簿と住民票のズレ
調べてみると、建物は滅失になっているが、なぜかそこに今も住民登録されている人間が数名いた。
しかもそのうちの一人は、昨年死んだとされる中村葵の兄だった。つまり、誰かがその名前を使い、書類上の操作をしていたということだ。
「実体なき転居」それがこの事件のキーワードだった。
猫の行動が示す真実
再度あの家を訪れた。白猫はまた、塀の上からこちらを見ていた。足元の土を少し掘ると、そこから金属製の小箱が現れた。
中には中村葵の直筆メモと、ICレコーダーが入っていた。再生すると、兄の横領、不正、そしてそれを証明する彼女の声が記録されていた。
それは決定的な証拠だった。猫は、ずっと彼女の代わりに「知らせる」ために、あの場所を離れなかったのだ。
真相と白猫の足跡
中村葵の兄は逮捕され、事件は解決した。彼女は事件後、遠くの施設で静かに療養していた。精神的なショックで記憶の混濁があるとのことだった。
白猫は、今も同じ場所にいる。まるでそこが“真実の番人”であるかのように。
「シンドウさん、猫に手柄を持ってかれましたね」塩対応のサトウさんが、わずかに口元を緩めた。
転居届の筆跡が語るもう一つの生活
葵の筆跡は震えていたが、そこには確かに意志があった。「誰かが見つけてくれる」そう信じて、小さな希望を紙に託したのだ。
司法書士の仕事とは、書類を処理するだけではない。行間に潜む“声”をすくい取ることもまた、僕の役目なのかもしれない。
「やれやれ、、、猫には敵わないな」僕は帽子を深くかぶり直し、事務所へと歩き出した。