今日も朝から明細書作成に追われる日々
司法書士という仕事の中で、「明細書作成」という業務ほど、報われない作業はないんじゃないかと本気で思うときがある。登記や相談業務と違って、クライアントに直接感謝されることもないし、誰かが褒めてくれるわけでもない。ただ淡々と、数字と作業時間と項目を並べていく。この作業が事務所の信頼を支えていると自分に言い聞かせながらも、「今日もか…」とため息をついてしまうのが本音だ。
丁寧に書いても誰も読んでない気がする
明細書を、なるべくわかりやすく、誤解がないように丁寧に書いているつもりだ。でも、相手は数字だけしか見ていないように感じるときがある。「この報酬高いな」と言われることはあっても、「細かく書いてくれてありがとう」なんて言われたこと、あっただろうか。まるで、空振りの連続をしているような感覚に襲われる。元野球部の私としては、「打席には立っているのに、バットが当たらない」そんなもどかしさだ。
数字に追われる作業に感情は必要ないのか
明細書というのは、ある意味で「感情のない資料」なのかもしれない。ミスがあってはならない、金額が間違っていては信用問題になる。だからこそ、感情を交えずに正確に作るべきなのだろう。でも、それでも思ってしまう。ここに自分の時間と気遣いが詰まっていると、少しでも気づいてくれたら嬉しいのにと。「正確さ」と「想い」の間で揺れる自分に、時々疲れてしまう。
「こんなに書いたのに」誰にも届かない努力
たとえば、A4で3枚に及ぶ明細書を一つの案件で作ったことがある。依頼人からの質問が多かったため、誤解がないようにと一つ一つ説明を加え、根拠も示した。でも返ってきたのは「なんか長いですね…結局いくらですか?」という言葉だけだった。あのとき、何のためにこんなに説明を書いたんだろうと、心がぽっきり折れた。誰にも届かない努力ほど、虚しいものはない。
昔の先輩が言っていたことを思い出す
司法書士事務所に勤めていた若い頃、よく「そんな丁寧に書いても誰も見ないぞ」と先輩に言われたのを思い出す。当時は「そんなもんかな」と軽く聞き流していたが、今になってその言葉が身に染みてくるようになった。必要だから書く、でも見られない。そのギャップを埋める言葉は、今も見つからない。
「自己満足だよ」って笑ってたあの人
「それ、自己満足だよ」って笑いながら言っていた先輩。最初は腹が立ったけれど、今ならその言葉の裏にある諦めもわかる気がする。あの人もきっと、何度も丁寧に書いて、何度も報われなかったんだろう。でも、だからといって手を抜くこともできず、笑いに変えるしかなかった。私も同じ道を歩いているのかもしれない。
でもやっぱり丁寧にやらないと気が済まない
手を抜いてしまえば、楽になる。数字だけを機械的に並べればいい。それでも私は、明細書を丁寧に作らずにはいられない。依頼人が気づかなくても、あとで自分が読み返して「これは正確だった」と納得できるように。誰かのためというより、自分の気が済むかどうか、という話なのだ。ある意味、頑固だし、面倒な性格なのかもしれない。
報われない感覚が積もるとき
どんなに耐えていても、「なんでこんなに報われないんだろう」と感じてしまう日はある。たぶん、誰にでもあるんじゃないだろうか。司法書士という仕事は、黙々とやって当たり前。評価されることよりも、ミスしないことのほうが重視される。でも人間なんだから、「ちゃんとやってるね」と言われたい日だってあるのだ。
月末の明細チェックが一番しんどい
特にきついのは月末。案件が重なって、確認作業が増える。疲れている中で数字を追い、領収書と突き合わせる作業に頭がぼんやりしてくる。目も肩も痛い。でも間違えたら最後、自分の責任になると思うと、何度も見直してしまう。神経がすり減る作業だが、それでもミスがあると「ちゃんと見てます?」なんて言われる。この仕事、どこまで自分を削ればいいんだろうと思う。
締切と無関心の板挟み
「いつまでにできますか?」と急かされ、急いで仕上げた明細書。でも、提出したあとは音沙汰なし。急いだ意味があったのか?と自問自答する。「明日までに」と言われたから、深夜まで残って書いたのに、それを見た相手は読んでさえいない様子だった。締切のプレッシャーと、相手の無関心。この板挟みに、心がすり減っていく。
相手は数字しか見てない
最終的に、相手が見るのは「合計金額」だけだ。途中経過や説明項目なんて、見てないのがほとんど。それが悪いとは思わない。でも、こちらが時間をかけて書いた細かい説明が、全スルーされていると気づいたときは、何とも言えない気持ちになる。透明人間になったような、そんな感覚だ。
事務員さんの存在に救われる瞬間もある
唯一の救いは、事務員さんの存在かもしれない。長年一緒にやっているからこそ、私がどれだけ細かいところを気にして作業しているか、なんとなく伝わっている気がする。彼女が「明細、きれいに揃ってますね」とポツリと言ってくれた日は、心から「ありがとう」と思った。そういう一言で、何とか自分を保っているのかもしれない。
「この項目ってどこですか?」にホッとする
事務員さんに明細の内容を聞かれたとき、正直、内心では嬉しかった。少なくとも、誰かがちゃんと見てくれてるんだなって思えたからだ。普段は口数の少ない人だけれど、必要なときにはちゃんと確認してくれるし、何より興味を持ってくれているのがありがたい。ほんの少しでも共有できると、救われる気がする。
誰かと確認できるってそれだけで違う
人と一緒に仕事をするというのは、確認作業の効率が上がるだけじゃない。精神的な支えになる。たった一言でも、確認してくれる人がいるだけで、自分の存在を認めてもらえた気になるのだ。たぶん、明細書という作業の孤独さが、この「一緒に」が持つ重みを際立たせているのかもしれない。
それでも書き続ける理由を考える
これだけ虚しさや愚痴をこぼしても、それでも明細書を書き続けている。それはやっぱり、自分なりの意味を見出しているからだと思う。誰にも評価されなくても、見られなくても、それでも「自分がちゃんとやった」と思える仕事を残しておきたい。その気持ちが、最後の支えになっている。
自分だけは自分の仕事を分かっていたい
他人にどう見られるかよりも、自分が納得できるか。それが最終的には一番大事なことだと思っている。手を抜いた書類を見ると、自分で自分を責めたくなるのだ。逆に、誰にも気づかれなくても丁寧にやった仕事を見返すと、少しだけ誇らしい気持ちになる。結局、自分自身に恥じないように働きたい、それだけなのかもしれない。
誰かの目に触れなくても
この明細書が誰の目にも止まらないかもしれない。でも、5年後、10年後に誰かが読み返して「このときはこうだったのか」と思ってくれるかもしれない。そう考えると、やはり手を抜けない。今は意味がなくても、未来には意味を持つかもしれない。それが記録を残すという仕事の、ひとつの意義だと思う。
記録は誠意の積み重ねだと思いたい
明細書というのは、単なる数字の羅列ではない。その裏には、案件ごとに積み重ねた作業と、関わった時間、心の動きがある。だから私は、これは誠意の記録だと思っている。依頼人がそれに気づかなくてもいい。せめて、自分自身には誠意を尽くしていたと胸を張れるように、今日もまた、静かにキーボードを叩いている。