欠けているのは数字か、それとも私の心か
朝、事務所のドアを開けた瞬間から、なんとも言えない緊張感が走る。机の上には昨日の補正通知、モニターには未返信のメールの山。そして脳内には「また今日も何か足りてないんじゃないか…」という不安。司法書士の仕事は、基本的には「正確さ」が命。けれどその「正確さ」を支えるのは、クライアントからの情報であったり、書類のわずかな記載だったりする。そして、そこに“欠け”が生じた瞬間から、私たちは振り回される。そう、“欠損値”という言葉に、私は妙な共感を覚えるのだ。
「欠損値」という言葉に感じる妙な親近感
統計やデータ分析の世界で使われる「欠損値」という言葉を初めて聞いたとき、思わず笑ってしまった。「あ、それ、うちの仕事にもあるやつじゃん」と。実際、登記の現場でも似たような状況が日常茶飯事だ。住所の番地が抜けていたり、評価証明書の日付が違っていたり。たったそれだけのことで、法務局から容赦なく補正通知が飛んでくる。しかもそれが1件じゃなくて、同時に3件も4件も。データ分析の世界ではスクリプトで処理できても、こっちは人間。精神的な“ダメージ値”は、じわじわと積もっていく。
登記業務における「空欄」の恐怖
「空欄」があるだけで、全てが止まる。それが登記の世界だ。たとえば、所有者の氏名のふりがなが抜けていただけで補正対象になることもある。しかもその情報、当人からの聞き取りが必要になると、連絡がつかない日が丸一日を無駄にすることも。私のように地方でやっていると、依頼人が高齢だったりして、電話も繋がりにくい。そんなとき、机の上の空欄ひとつが、まるで“未解決事件”のような重みを持つ。精神的には小さな穴がぽっかり空いているような状態になり、モチベーションの維持も難しくなる。
補正通知との付き合い方を間違えると心が削られる
補正通知、それはまるで「お前の仕事は甘い」と突きつけられる赤紙のようなもの。私はもう慣れた…と思いたいが、正直、あのハンコの押された紙を見た瞬間、未だに心がザワつく。補正が来たということは、どこかに“欠損”があったということ。それがこちらのミスであれば、なおさら落ち込むし、依頼人の目も気になる。中には「そんなの聞いてない」と怒り出す人もいて、対応が一段と難しくなる。冷静に対処しようとしても、削られるのはやっぱり「心」なのだ。
たった一文字の抜けで午前中が終わる理不尽
ある日、住宅ローンの抹消登記で、抵当権者の商号の「株式会社」の“株”が一文字抜けていた。たったそれだけで法務局から補正が入り、慌てて顧客に連絡、銀行に書類を再発行してもらう手配で午前中がすっ飛んだ。その間、他の仕事はストップ。事務員さんには「お昼どうします?」と聞かれたが、食欲なんてなかった。機械なら処理できるはずの一文字の差に、なぜこんなにも人の時間と精神が削られるのか。理不尽だと感じながらも、訂正印を押すしかない。
現場の「欠損」は机の上だけじゃない
登記の現場で起こる「欠損」は、書類上の話にとどまらない。人手、時間、集中力、そして何よりも「気力」。それらがじわじわと失われていく過程は、数字で表せないだけに、余計にタチが悪い。私のようにひとり+事務員で回している事務所では、ひとつの“穴”がすぐに業務全体に波及してしまう。まさに“連鎖欠損”状態。たまに「どうしてこんな仕事選んだんだっけ」と天井を見上げる日もある。
人手不足という名の慢性的欠損状態
そもそも事務員さんひとりと自分だけで、月に何十件も処理するのが無理な話なのかもしれない。人手を増やしたくても、地方ではなかなか応募が来ない。応募が来ても、数カ月で辞めてしまう。そうなると、また私がすべてを抱え込むことになる。これって“業務の欠損値”じゃないのかとすら思う。人が足りないと、確認作業が疎かになり、結果ミスが出る。欠損値が欠損を生むスパイラルに、いつまで付き合えばいいのか。
事務員さんに頼りすぎる日々とその葛藤
今の事務員さんはよくやってくれている。でも、やっぱり頼りすぎてしまっている気がする。ちょっとした確認を任せた結果、それが抜けて補正になると、責めることもできず、自分を責めるしかない。信頼と依存の境界線が曖昧になっていて、「これは本来自分がやるべきだったのでは」と後悔する夜もある。どこかで補完し合える関係が理想だと分かってはいるが、現実はなかなかそううまくいかない。
「あとでやろう」が積もった末の自己嫌悪
「あとでやろう」とメモだけ残したタスクが、気づけば一週間放置されていた。補正通知が来て初めて気づいたときの、あの胃の痛みといったら…。忙しさを言い訳にして、確認作業を後回しにした自分が悪い。でも、毎日がギリギリの綱渡りのような状態で、すぐ処理できないこともある。欠損値の正体は、結局、私の“怠慢”だったのかもしれない。そんなふうに思うと、余計に自己嫌悪が募る。
なぜこうも情報が「抜けて」しまうのか
依頼人に悪気があるわけではない。でも、「あれ? そんなこと言ってましたっけ?」という場面は少なくない。書類をそろえる段階での“聞き漏れ”や“伝え忘れ”が、あとになって大問題になる。まるで、最初から何かが抜け落ちたパズルを組み立てているような日々だ。結局、こちらの確認が甘いと言われればそれまでだが、それを完全に防ぐのは容易ではない。
依頼人の記憶は曖昧で、現実は非情
「法定相続人はこの4人だけです」そう断言していた依頼人。でも、あとになってもう一人いることが判明。補正どころか、申請のやり直しにまで発展した。依頼人を責めることはできないが、こちらは一気に時間と労力を失う。こうした“記憶の欠損”をどう扱えばいいのか。事前確認を徹底しても、本人の意識の外にある情報は出てこない。非情なのは、そうしたミスを法務局が容赦なく跳ね返してくる現実だ。
「言ったはず」「聞いてません」戦争の結末
「言いましたよ」「いや、聞いてません」このやりとり、何度繰り返してきたことか。言った言わないの水掛け論は、記録がなければ永遠に平行線だ。結果、どちらが正しかったとしても、仕事は前に進まないし、関係性もギクシャクする。私は最近、すべてメールでのやりとりを基本にしているが、それでも電話のひと言で済まされたりして、記録に残らない情報が多すぎる。だからこそ、些細なことでも「必ず残す」が自分の中でのルールになった。
電話メモすら残らないときの絶望
ある朝、電話で「書類のコピーは送りましたから」と言われたが、どれがそうなのか不明。事務員さんも聞いておらず、私もメモを取っていなかった。後日、その書類が補正原因になり、もう一度取り寄せ。なぜメモを残さなかったのか、自分を責めても時間は戻らない。情報が“欠損”しているという事実は、誰かの責任というより、システムの不在。だが、その負担は結局、こちらに押し寄せてくる。
メールに書いてくれたら助かるのに、の願望
「それ、最初にメールで送ってくれたら、すぐ対応できたのに…」と、何度思ったことか。電話のやりとりはリアルタイムで便利だが、記録に残らない。しかも、登記に必要な情報ほど細かくて複雑だから、聞き違いが致命傷になる。お願いだから、ちょっと面倒でもメールしてほしい。そんな気持ちは、依頼人にはなかなか伝わらない。でも、それが本音だ。
小さな欠損、大きな代償
結局のところ、登記業務における“欠損値”は、些細なミスから生まれる。そしてその代償は、時間、信頼、精神力の消耗という形で返ってくる。誰かのせいにはできないからこそ、日々のチェックと確認、そして記録が重要になる。それでもすべてを防ぐことは難しい。だから今日もまた、私は補正と向き合っている。
一通の郵便で崩れるスケジュール
ポストに補正通知が届いた瞬間、その日の予定が狂う。急ぎの仕事を後回しにして、ミスの確認、再提出の手配、依頼人への連絡…。そのすべてが予想外の負担になる。スケジュール帳を見ながら、「なんで今日こんなに詰まってるんだ…」と頭を抱えることもある。登記業務は、常に“完璧”を求められるが、人間は完璧ではない。
修正→提出→補正→修正…終わらないループ
まるで無限ループ。修正して出しても、また補正される。違う箇所で、また…。一度ミスが続くと、自信も失われるし、書類を見る目が曇る。なによりも、「また間違えてたらどうしよう」という恐怖が積み重なる。これが地味にきつい。終わったはずの案件が戻ってくる絶望は、他の誰にも分からないかもしれない。
「完璧にやる」は幻想、それでもやるしかない
司法書士として、正確な仕事をするのは当然だ。でも、すべてを完璧にこなすのは無理だと最近ようやく受け入れられるようになってきた。ミスは出る。欠損は起きる。大事なのは、そこで止まらずにリカバリーする力。自分の精神をすり減らさずに、前を向く方法を見つけること。それが、40代に入ってからの私の新たなテーマだ。