気づいたら今日も無音だった
ふと時計を見たのは午後三時過ぎだった。昼休憩すらとらずに登記のチェックをしていたことに、そこではじめて気づいた。そして気づいてみれば、テレビもラジオも、スマホの音すら鳴らしていない。朝、事務所に入ってから、ずっと無音のままだった。誰かと会話したわけでもなく、ただ書類とにらめっこをして、キーボードを叩く音だけが部屋に響いていた。こんな一日がいつから始まっていたのか、自分でも思い出せない。
テレビもラジオもつけないまま始まった朝
出勤して、PCを立ち上げ、メールを開く。それが朝の日課になって久しい。以前は、朝の情報番組をBGM代わりに流していた。天気予報やちょっとした世間話、そういうものに救われていた時期もある。しかし最近は違う。無意識のうちにテレビもラジオもつけなくなっていた。音があると気が散る、というのが理由だったけれど、本当のところは、ただ何も聞きたくなかったのかもしれない。雑音が多すぎて、かえって心が疲れていたのだ。
無音が心地よくなってきたのはいつからか
最初は寂しさを感じた。無音の事務所は、まるで誰もいない図書館のようで、居心地が悪かった。しかし、それにも慣れてくる。慣れとは恐ろしいもので、無音が日常になると、音のある環境に違和感すら覚えるようになる。たまに事務員がラジオをつけてくれることがあっても、集中できないと感じて、つい「今日は静かな方がいいかな」なんて言ってしまう。そんな自分に気づくと、少しだけ胸が痛む。
情報を入れすぎて疲れていた自分に気づく
ニュース、SNS、メール、LINE…四六時中、何かの情報に追われている気がしていた。かつてはそれが「ちゃんとしている大人の証拠」だと思っていたが、今は少し違う。必要な情報だけを取りにいくだけで、精一杯だ。音を遮断しているのは、外の世界を遮断したいからではなく、自分の心を守るためだったのかもしれない。忙しさの中で、気づかないうちに、私は心の耳を塞いでいた。
音がないと心が静かになるとは限らない
静かな空間にいれば、心も穏やかになる――そう思っていたのは幻想だった。現実は違う。むしろ無音のなかでこそ、頭の中のノイズが響く。今日締切の登記、明日の相談、来週の裁判所対応、事務員の休暇申請…。誰にも話さないまま、頭の中だけで考え続けて、どんどん内側が騒がしくなっていく。
頭の中のざわざわは消えない
一人で静かに過ごしていると、自分の声がよく聞こえる。とはいえ、それは前向きな声ばかりではない。「またやり残したな」「あの対応で良かったのか」「このままでいいのか」そんな声たちが、どんどん蓄積されていく。まるで思考の渋滞だ。無音であることは、思考を整理する時間をくれるかもしれないが、同時に心のざわめきを増幅させる鏡にもなる。
無音だからこそ響く電話のコール音
そんな中、電話が鳴る。その音がやけに大きく響いて驚く。誰かからの連絡、それだけで少し救われる気持ちになる。たとえ相続のトラブルの相談だったとしても、人と話せること自体が救いに感じるのだ。音がない日常に、音が戻る瞬間。そこには、ほんの少しの安心がある。誰かが自分を必要としてくれている、そんな錯覚でも、今の自分には十分すぎる。
独り言だけが聞こえる午後
午後三時。気づいたら声を発したのは、独り言だけだった。「よし」「あー…」「これは後回しだな」誰に聞かせるでもなく、呟く自分の声が、静寂の中に響く。寂しいのか、慣れてしまったのか、それすらもうわからない。ただ、そうやって今日もまた一日が終わっていく。
事務所に響くのはキーボードとため息だけ
カタカタという打鍵音、そしてふと漏れる自分のため息。その繰り返しがこの事務所のBGMだ。事務員も静かな人で、必要以上に話しかけてくることはない。お互い、淡々とやるべきことをこなしている。そんな静けさが、時に心を支えてくれているような気もする。だが反面、「これでいいのか」と自問する瞬間もある。もっと賑やかだった頃が、あったような気もするからだ。
事務員との会話も必要最小限
「お疲れ様です」「この書類、確認お願いできますか」その程度の会話しかしていない日もある。世間話をしようと思えばできるのだろうが、それをしない。しても仕方ない、そんな空気が事務所に染み付いているのかもしれない。昔は昼休みにアイスの話をしたり、テレビのネタで笑ったりもしていた。けれど今は、何かを話すこと自体が億劫に感じてしまう。自分の余裕のなさが原因なのは、わかっている。
音を遮断して何を守っているのか
音を断つことで守っているのは、自分の神経か、心か。それとも、もっと別の何かなのか。ひとつだけ言えるのは、音がないことで、確かに救われている面もあるということ。ただ、それが癒しかというと、そうでもない。ただの逃避に過ぎない気もする。音のない日常の中に、自分の不器用さや寂しさが、そっと潜んでいる。
モノクロの日常と感情の切り離し
テレビやラジオには、色がある。感情を揺さぶるニュースや、笑い声、時には音楽。そうした色彩を遠ざけることで、感情に蓋をしているのかもしれない。司法書士という職業は、感情を排した判断を求められる。泣いても怒っても、書類は冷静に処理しなければならない。音を遮断しているのは、そんな仕事のクセが、私生活にまで染み込んできている証拠かもしれない。
仕事に集中しすぎて情が削がれていく
登記や契約書の処理に没頭していると、どこか感情が麻痺してくる。依頼者の背景には人生があるとわかっていても、目の前にあるのは形式的な紙の束だ。目を通し、押印の不備を探し、期限を守る。その繰り返しのなかで、心を込める隙間がどんどん削られていく。気づいたときには、「ありがとう」や「助かりました」の言葉さえ、上滑りするように受け流してしまっていた。
音を遮ることで自分を保っているだけかもしれない
人の感情にいちいち共鳴していたら、この仕事は続けられない。そう思って、音を遮っているのかもしれない。無音の中、自分のペースで、淡々と処理をこなすことで、自我を保っている。音を入れることで心が揺れるなら、いっそ遮断してしまった方が楽だ。そんな考えが習慣になっていたのだろう。だけど、ふとした瞬間に、その「楽」が「孤独」に変わることもある。
過去には音があった
忘れかけていたが、音に満ちた時代もあった。高校時代、野球部で叫んでいた声。試合での歓声、仲間の怒号、バットがボールを打つ快音。今思えば、あの頃は騒がしいけれど、確かに生きていた。
野球部時代は毎日が騒がしかった
朝のランニング、夕方のノック、夜の素振り。常に誰かの声がしていた。怒られ、笑い合い、声を掛け合っていた。無音とは無縁の世界だった。感情を爆発させる場が、そこにはあった。勝ったときは叫び、負けたときは泣いた。今の自分には、そんな爆発はない。感情を抑え込みすぎて、どこに置いたかさえわからなくなっている。
汗と声と仲間の音に囲まれていたあの頃
あのときの音は、心を支えるリズムだった。声を出せば、誰かが応えてくれた。黙っていても、気配を感じられた。今はどうだろう。静かな部屋で、独り言すら虚しく感じるときがある。仕事のなかで「声を上げる」機会はほとんどない。抑制と冷静が求められる世界では、自分の存在感が薄れていくような感覚に陥る。
あのときの自分と今の自分を比べてみる
若い頃は、未来がどんどんやってくると思っていた。けれど今は、目の前の一日をどう終えるかで精一杯だ。音のある日々から、音のない日々へ。変わっていったのは、自分自身の感受性なのか、それとも生活そのものなのか。ただ、もう一度、あの音の中に戻りたい気持ちがないわけではない。どこかでまだ、自分を取り戻したいと願っている。
静けさが教えてくれたこと
音をなくして、はじめて気づいたことがある。自分が何に疲れていて、何を必要としているのか。静けさは逃避でもあり、回復の時間でもあった。そこに意味を見出せるようになった今、もう少しだけこの無音の時間と付き合ってみようと思う。
自分と向き合う時間の大切さ
誰かと話すことも大切だけど、自分の声を聞くことも、それ以上に大切だと思うようになった。音のない時間は、自分の思考と感情を整理するための静かなノートのようなもの。しんどさもあるが、そのぶん、余計なものを削ぎ落とせる。ふとした瞬間に「ああ、こう思ってたんだな」と気づけることがある。忙しいだけの毎日では、それは得られなかったかもしれない。
忙しさの中で押し殺してきた感情たち
「そんなこと思ってちゃダメだ」「もっと前向きにやらなきゃ」そう自分に言い聞かせて、押し殺してきた感情はたくさんある。悔しさ、寂しさ、虚しさ…そのどれもが、本当は向き合うべきものだったのかもしれない。音のない時間の中で、それらが少しずつ浮かび上がってくる。逃げ場のない空間だからこそ、真っ直ぐに見つめるしかない。
本当は誰かとつながりたかったのかもしれない
無音に慣れたと思っていた。でも、もしかしたら本当は、誰かの声が恋しかったのかもしれない。安心できる雑音、何気ない会話、他愛もない笑い声。そういうものが、自分には必要だったのだと思う。無音は自分を守ってくれるけれど、同時に何かを遠ざけてしまう。これからは、意識して少しずつ音を取り戻していこうと思う。