プロローグ 午後の来客
蝉の声がやけに耳につく午後、事務所のドアがきしんだ音とともに開いた。古びたスーツを着た老人が、茶封筒を手にしながらゆっくりと入ってきた。無言のまま、それを机の上に置いた。
「この中に遺言があります。兄のです」と彼は言った。
その言葉の後、何も言わずに老人は去っていった。まるで誰かに追われているような足取りだった。
古びたスーツの男が残した封筒
封筒は厚く、湿気を含んだような手触りだった。宛名も差出人もなく、ただ一枚の便箋が折り込まれているだけだった。筆跡は達筆で、日付は十年前。
十年前の遺言? しかも公正証書ではない自筆証書? なんだか胡散臭い。
そんな直感が、僕の心に小さな針を刺してきた。
遺言の正体と依頼の奇妙さ
内容を確認すると、そこには山林と古家の相続について記されていた。兄にすべてを譲る、とだけある。だが、登記簿には既に弟名義で登記が済んでいる。
一体どういうことだ? もしこの遺言が本物なら、今の所有権は無効になる可能性もある。
そして何より奇妙だったのは、その遺言の筆跡に違和感を覚えたことだった。
不可解な相続の構図
調べ始めると、相続登記は三年前に完了していた。提出されたのは、公正証書遺言による手続き。だが、今日持ち込まれたのは自筆遺言書で、内容も真逆だった。
公証人の証明と、自筆の文字。どちらが本物で、どちらが嘘なのか。
その二つの登記簿を並べてみたとき、思わず声を上げそうになった。
登記簿に記された矛盾
固定資産番号が一致していない。公正証書遺言の記載と登記情報が微妙に違うのだ。誤記か? それとも意図的なミスか?
こんな初歩的なミス、まともな司法書士ならしない。だが、登記は通っている。
まるで最初から誰かがそれを利用する前提で、ミスを仕込んだかのようだった。
二つの名前と一つの土地
山林の地番と家屋番号がずれている。つまり、家は兄のもので土地は弟のものという構図だ。これは相続としては極めて珍しい。
そして、再度登記を洗い直すと、三年前の名義変更申請時に兄の死亡届が添付されていないという異常が見つかった。
どう考えても、おかしい。
サトウさんの冷静な分析
「これ、提出された遺言書の方が偽物でしょうね」とサトウさんが言った。いつものようにパソコンを打つ手を止めず、表情も変えずに。
「偽物って、どっちの?」と聞き返すと、彼女はちらりと僕を見た。
「両方です。つまり、どちらも意図的に作られてる。利用されたのは兄と弟、どちらも当事者じゃない」
筆跡と日付の謎
古い便箋の筆跡は明らかに同じ人物のものだった。だが、日付は数年離れていた。しかも使われたインクがまったく同じ。
まるで、過去の自分を装って今になって書いたような、、、
「やれやれ、、、また厄介な案件だ」と思わず口をついた。
「これは誰かが書き換えてますね」
「そもそも、これは原本じゃないです。コピーした上に、日付と名前だけ手書きしてます。たぶん、スキャン→プリント→署名、ですね」
淡々とした説明に、背筋がぞっとした。誰かが、相続権をめぐって壮大な偽装をしている。
しかも、それが成功しそうなほど周到に。
田舎の村に残る証言
実際の家を確認するため、僕らは現地へ向かった。案の定、山奥の集落にその家はあった。蔦が絡まり、雨樋が壊れ、誰も住んでいない様子だった。
近所の老婆が言った。「あの家? ずーっと空き家よ。もう10年は人の出入りもないわねぇ」
遺言の日付と一致する。だとすれば、、、兄は10年前に亡くなっていた可能性もある。
「あの家はずっと空き家だったよ」
さらに聞き込みを続けると、数年前にスーツ姿の男が一度だけ訪ねてきたという証言があった。「なんか調べにきたみたいだったけど、すぐに帰ったよ」
その人物の特徴は、依頼者である弟に酷似していた。
自分の相続を確かなものにするために、家や書類を確認しに来たのか、、、?
消えた兄と隠された事故
地元の役場に確認すると、兄の死亡届は出されていなかった。しかし、10年前に近くの沢で身元不明遺体が発見されていた記録が残っていた。
身元不明で火葬されたが、持ち物は近所で行方不明になった兄と一致していた。
つまり、遺言の所有者は既にこの世にはいない、、、いや、いなかった。
やれやれの捜査開始
これが司法書士の仕事か?と自問しながら、僕は調査報告書をまとめ始めた。登記の矛盾、遺言の偽造、兄の失踪、そして弟の策略。
まるで探偵漫画のような筋書きだ。でも、現実はもっと泥臭くて地味だ。
やれやれ、、、本当に疲れる仕事だ。
元野球部の感と勘
僕は、登記簿の記録から、偽造された申請書のクセに気づいた。書式が古すぎる。使われていた記載方法が、すでに数年前に廃止されたものだった。
これが証拠になる。サトウさんがすぐに補足情報をPDFでまとめてくれた。
最後のアウトは、こちらが取った。
登記簿をめくるたびに深まる闇
結局、弟は登記簿に記された不正の証拠によって摘発された。彼は黙秘を続けたが、郵便局の押印記録などから偽造が確定された。
だが、その裏にある家族の不仲や、金への執着は、決して登記には映らない。
登記簿は正直だが、人間はそうではない。
真犯人の動機と仕掛け
弟は全てを計画していた。兄が死んだことを知りながら、数年後に相続登記を偽造し、さらに時効を迎える寸前に自筆遺言をでっちあげた。
本物の遺言はどこにも存在しなかった。ただ、兄の死だけが事実だった。
それでも、人は「紙に書かれた何か」に縋ろうとする。
本物の遺言と偽の証明書
最終的に裁判所が判断したのは、公正証書遺言も自筆証書遺言も無効という結論だった。すべてが嘘。すべてが偽りの上に成り立っていた。
残されたのは、空き家と無人の山林、そして不名誉な記録だけだった。
「登記は事実を記録する。でも、真実はまた別なんですよ」と僕はつぶやいた。
「証拠はすでに出てますよ」
事件を振り返ると、全ては最初の封筒から始まっていた。あの男があえてそれを持ち込んだ理由。それは、心のどこかで罪悪感を抱えていたからかもしれない。
最後の最後、僕に言った。「兄貴のこと、信じてた。でも、俺、どうかしてた」
それだけを残して、彼は法廷へと消えていった。
結末 遺言が語った真実
残された山林は、国庫へ帰属することになった。空き家は取り壊され、何も残らなかった。
でも、登記簿には確かに記録が残る。虚偽であっても、一度書かれたものは消えない。
それが、法と記録の冷たい現実だ。
家族を守ろうとした小さな嘘
もしもあの兄が遺言を書いていたら、それは弟を救うものだったのだろうか。
あるいは、遺言がなかったからこそ弟は救われなかったのかもしれない。
家族ってのは、サザエさんみたいに毎週仲良くは終われないらしい。
司法書士としての最後の仕事
報告書を提出し、静かになった事務所でサトウさんが一言。
「で、報酬は?」
「、、、やれやれ、もう少し労いの言葉とかないのか」