終わったはずの仕事が、心に住み着く理由
司法書士という仕事は、登記が完了すれば一件落着、と表面上は見える。でも実際には、登記の完了が心の一区切りにならないことがある。むしろ、登記が終わってからこそ、その案件が心に残ってしまうという不思議な現象が起こる。手続き自体は淡々と進めても、依頼者とのやりとりや背景にあるドラマは、どこかに引っかかって消えずに残る。忘れたくても忘れられない。そんな案件が、年に数件はある。
登記の完了はゴールじゃない
書類を提出して完了通知を受け取れば、仕事としては終わり。でも、その「終わり」はあくまで手続き上の話であって、感情にはまったく区切りがついていないことがある。特に、相続や離婚、家族との別れが絡む案件は、登記が完了したからといってすべてが終わったわけではない。その人の人生に深く関わった記憶だけが、こちらの中にずっと残ってしまう。仕事のプロとしての距離感を保っているつもりでも、人として無関心ではいられないのが現実だ。
手続きは終わっても、感情は残る
たとえば、ある高齢の女性から「夫が亡くなったので相続登記をお願いしたい」と依頼を受けたことがあった。淡々と聞こえる依頼内容の裏には、50年以上連れ添った配偶者を失った悲しみがあった。その方は、登記の完了報告のときに「これで本当に終わったんですね」と言って涙を流された。その言葉と涙が今でも心に残っている。手続きとしては一瞬で終わる報告でも、依頼者にとっては人生の大きな節目なのだ。
依頼者の涙が忘れられない日
その日、事務所に戻ってからもしばらく気持ちが沈んだままだった。書類は一枚提出すれば済む。でも、その向こうにある想いや人生を思うと、胸にずしんと重みが残る。誰かの人生の一部に、こちらの名前が関わっている。その重みを忘れてはいけないと思う一方で、背負いきれない感情に押しつぶされそうにもなる。だからこそ、司法書士という仕事は、思っている以上に「感情労働」でもあるのだ。
司法書士は感情を受け止めがち
この仕事をしていると、依頼者の表情や言葉の端々に込められた想いを感じ取ってしまうことが多い。全員が感情をあらわにするわけではない。でも、だからこそ、何も言わないその沈黙が余計に響く。「これでよかったのかな」「もっと寄り添えたんじゃないか」と、後になってから自問自答することがある。相手の人生に一歩踏み込んでしまう怖さと、それでも関わる責任との間で揺れ続けている。
冷静なふりにも限界がある
司法書士は常に冷静でいるべきだ、とよく言われる。でも実際は、毎回感情をシャットアウトできるほど器用じゃない。こちらも人間だ。思い出すと胸が締めつけられるような依頼もあるし、夜にふと考え込んでしまうこともある。「仕事だから」と自分に言い聞かせても、心が勝手に反応してしまう瞬間がある。それでも、誰にも気づかれないように平常を装って、今日もまた登記簿とにらめっこしている。
あの案件がふとした瞬間によみがえる
意外と忘れられない案件というのは、日常の何気ない瞬間にふっと思い出される。夜にコンビニで立ち読みしているときとか、朝にコーヒーを淹れているときとか。ふとした瞬間に、依頼者の名前や顔が脳裏によみがえってくる。「あの人、今どうしてるかな」なんて考えてしまう。これはたぶん、気持ちの整理がちゃんとできていないからなんだろう。
夜のコンビニで思い出す名前
特に、夜中にふらっと立ち寄ったコンビニで、ぼーっとしているときに、なぜか名前が浮かんでくる。たぶん、日中は忙しくて考える余裕がなくて、夜になってやっと心が自由になるんだと思う。無意識に「忘れちゃいけない」と思っているのかもしれない。そんなとき、自分でも驚くくらい、その人のことを覚えている。たった一度きりの依頼だったとしても。
人の人生に触れる重さ
不動産の名義を書き換えるだけの仕事。でもその背景には、家族の物語や感情の変化が詰まっている。何十年と住んだ家を手放す人もいれば、長年の夢だった家をようやく手に入れる人もいる。そのひとつひとつにドラマがあって、それを自分がほんの少しだけでも共有しているという事実が、なんとも言えない重さとなって残る。だから簡単に「仕事だから」と割り切れない。
書類一枚の裏にある人生ドラマ
あるとき、長年空き家になっていた実家の名義を整理したいという依頼を受けた。現地調査のとき、その家の前で依頼者が「ここ、昔は家族でバーベキューした庭なんです」と話してくれた。その一言で、ただの空き家が思い出の詰まった場所に変わった。書類には表れないけれど、その家には家族の歴史がある。そんな人生の断片を見せられると、ただの登記とは思えなくなってしまう。
無意識のうちに背負ってしまう
人の話を聞くのは嫌いじゃない。でも、聞いてしまったことで、気づかないうちに背負ってしまう感情がある。とくに相続や離婚といった、人生の転機に関わる案件は、依頼者自身も不安定な気持ちでいることが多い。だから、こちらも知らず知らずのうちに影響を受ける。自分の仕事は書類の処理じゃなく、人の想いを「登記」という形で区切る仕事なんだなと、あとになって実感する。
責任感と無力感のはざまで
時には「もっと何かできたんじゃないか」と思うこともある。でも、結局できることは限られている。その無力感に打ちのめされそうになるときもある。依頼者の期待に応えたい。でも、法の枠組みの中でしか動けない自分がもどかしい。だからといって、何もしないわけにはいかない。この感情の振れ幅が、仕事のやりがいであると同時に、心の負荷にもなっている。
事務員との何気ない会話が救いになる
事務所には事務員が一人いるだけだけど、彼女との会話が思いのほか大きな救いになっている。お互い忙しくて余裕がないときもあるけど、ふとしたタイミングで交わす何気ない一言が、重たい気持ちを軽くしてくれることがある。仕事は一人でもできるけど、心の負担は一人では抱えきれない。
他愛ない言葉が心をほどく
「今日もおつかれさまでした」と言われるだけで、心が少しほぐれる。別に特別なことを話すわけじゃない。でも、その日どんな案件があったか、なんとなく察してくれる存在がいるだけで、全然違う。自分の気持ちを言葉にしなくても、ちょっとだけ受け止めてもらえる。それがあるかないかで、日々の精神的な負担がまるで違ってくる。
「おつかれさま」に救われる日
ある日、相続の案件で気持ちがどんより沈んでいたとき、事務員が「今日、天気いいですね」と笑顔で声をかけてくれた。たったそれだけの言葉なのに、その日一日中沈んでいた気持ちがすっと軽くなった。仕事の話じゃなくてもいい。人としての何気ないやりとりが、重たくなった心を解きほぐしてくれる。誰かと働くことの価値を、こういうときに実感する。
一人で抱えないための工夫
司法書士は孤独な仕事だと思っていた。でも、少なくとも今の自分には、隣で支えてくれる事務員がいる。すべてを共有できるわけじゃないけれど、少しずつでも感情を吐き出せる相手がいることは、本当に大きい。だから最近は、無理に我慢しないようにしている。言葉にするだけでも、気持ちは変わる。登記は終わった。でも心に残ったその想いは、誰かと共有することで少しずつ薄れていくのかもしれない。
司法書士という仕事の性質と向き合う
年齢を重ねるにつれ、仕事との向き合い方も変わってきた。若い頃は、案件をこなすことに必死だった。でも今は、心に残る案件の方が印象に残っている。司法書士という仕事は、ただの「登記屋」じゃない。人と人との節目に立ち会う仕事だ。だからこそ、感情を抱え込んでしまうことがある。でも、それがこの仕事の本質なんだと思うようになってきた。
淡々とした業務の裏側にある葛藤
パソコンに向かって登記簿の内容を入力していると、ただの作業のように感じる。でも、その向こうには人の想いがある。作業のようで作業じゃない。誰かの人生に、そっと関わる仕事。それを誇りに思う一方で、抱えてしまう感情にどう折り合いをつけるかは、いまだに答えが見つからない。今日もまた、モニター越しに誰かの人生を見つめている。
感情を整理するタイミングがない
日々の業務に追われる中で、自分の感情と向き合う時間がほとんどない。気づいたときにはもう心が疲れている、ということもある。だから最近は、あえて立ち止まる時間を意識的に作っている。コーヒーを飲みながら、少しだけ今日の出来事を振り返る。それだけでも、気持ちの整理ができる。司法書士にも「感情の休憩時間」は必要だ。
忙しさに紛れて見失う自分
何件も案件をこなしているうちに、自分が何を大事にしているのか分からなくなる瞬間がある。でも、ふとした瞬間に心に残る案件を思い出すと、「自分はこの仕事が好きだったんだな」と再確認できる。それがある限り、きっと続けていける。登記が終わっても心に残る案件がある。それは、司法書士としての自分が、誰かの人生に確かに関わった証なのかもしれない。