仕事が生きがいになりきれない日々に思うこと

仕事が生きがいになりきれない日々に思うこと

仕事が生きがいにならないという違和感

司法書士として独立してから十年以上経ちますが、いまだに「この仕事が自分の生きがいです」とは言い切れません。やりがいを感じる瞬間もあります。感謝されたり、難しい案件を無事に終えたりすれば、少しは報われた気にもなります。ただ、それが「生きがい」と呼べるほどの熱量にはなりません。毎日仕事はあるし、生活も安定しているけれど、どこか心が置き去りになっている感覚があるんです。

それでも朝はやってくる

そんなことを考えていても、朝は毎日平等にやってきます。眠気とだるさを抱えながら、机に向かってパソコンを立ち上げる。昔は少しの緊張や期待もあったけど、今はすっかりルーティン。淡々と登記申請の書類をチェックして、スケジュール表を睨みながらため息をつく。ふと時計を見ると、まだ午前9時。…なんだか、時間の流れがやけに遅く感じる日が増えました。

目覚ましより先に目が覚める生活

最近は目覚ましが鳴る前に起きることが多いです。昔はギリギリまで布団の中にいたのに。これは年齢のせいなのか、あるいは仕事のストレスか、あるいは何かしらの不安なのか。よくわからないまま、冷めたコーヒーを飲みながら着替える。毎朝のルーティンが、まるで壊れた自動販売機のように同じ動作を繰り返してるようで、どこか空しいんですよね。

やることはあるのに気持ちが動かない

タスクは山のようにあります。依頼者とのやり取り、書類作成、法務局への申請、そして事務員との確認作業。にもかかわらず、どうしても身体が重い。これは肉体の疲労ではなく、気力の問題なんでしょうね。好きで始めた仕事なのに、いつの間にか「こなす」だけになっている。そんな自分が情けないと思いつつも、だからといって方向転換する気力もない。ジレンマだけが募ります。

働けてるだけありがたいのか?

贅沢な悩みだというのは自覚しています。コロナ禍で廃業した同業者もいるなか、自分の事務所がこうして続けられているだけで、ありがたいことです。でも、その「ありがたさ」だけで日々を支えるには限界がある。感謝と倦怠、そのあいだで感情の置き場所に迷う日々です。

地方で事務所を続けるという選択

都心に出る選択肢もあったかもしれません。でも、親のことや自分の生活リズムを考えて、この土地に残った。その決断が間違っていたとは思いませんが、やっぱり選ばなかった道を考えてしまうこともあります。地方ならではの人間関係の濃さや、案件の偏り、情報の遅さ。それらと向き合いながら、「ここでしかできない仕事」を模索する毎日です。

感謝と虚無感のあいだで揺れる

ときどき「ありがとう」と言われると、それだけで救われる気がします。でも、その後に残るのは妙な空虚さ。頑張っても頑張らなくても、結果が大きく変わらないことも多いこの仕事。報われる感覚よりも、「やるしかない」の繰り返しが多い。きっと、誰にも言えない気持ちを抱えている司法書士さんって多いんじゃないでしょうか。

やりがいって何だっけと思う瞬間

ふとした瞬間、「やりがいって何だろう」と思います。子どもの頃は、野球で勝ったときの達成感や、仲間との一体感が生きがいだった。でも今は…?案件をひとつ終えたとしても、その喜びは一瞬で消えていきます。やりがいを感じるには、自分の心に火がつくような何かが必要なんでしょうけど、それがなかなか見つからない。

依頼者の笑顔に救われるときもあるけれど

確かに、依頼者がほっとした顔で「助かりました」と言ってくれると、こちらも少しだけ報われた気持ちになります。たった一言でも、こちらの疲れが吹き飛ぶようなこともある。でも、それが毎日のエネルギー源になるかというと、そうでもない。結局、次の日にはまた新しい依頼が舞い込んできて、気持ちはリセットされてしまうんですよね。

手続きを終えた瞬間のあの空気

完了の電話を入れる瞬間って、ほんの少しだけ「やったな」と思えるんです。自分の書類がきちんと通って、スムーズに登記が終わったとき。その瞬間だけは、なんだか仕事が意味を持ったような気がする。でも、その達成感が長く続くことはなく、すぐに次の案件に引き戻される。この繰り返しが、やりがいをぼやけさせてしまうのかもしれません。

でもその後に残るのは疲労感だけ

あれこれ走り回って、ようやく終わった仕事。でも、身体に残るのは疲労感。喜びよりも、「終わってよかった…」という脱力感のほうが強い。本来なら、何かひとつ乗り越えたときって、前向きな気持ちになるものだと思うんです。でも今は、それがほとんどない。そのことが、自分をますます無気力にしている気がしてなりません。

誰のために頑張ってるんだろう

ときどき、ふと考えます。「この仕事、誰のためにやってるんだろう?」と。家族がいるわけでもなく、恋人がいるわけでもない。事務員さんはいてくれるけど、彼女に全部の重荷を見せるわけにもいかない。自分のために働いているのか、人のためなのか、それとも単なる惰性なのか。答えが出ないまま、今日もまた仕事に向き合っています。

家族も恋人もいない僕の場合

昔は「いつか結婚するだろう」と漠然と思ってました。でも気がつけば独身のまま45歳。周りの友人たちは家庭を持ち、子どもの話なんかをしている。僕はといえば、夜のスーパーで半額のお惣菜を選びながら、「今夜も一人か」とつぶやいている。そんな生活が当たり前になっていて、でもやっぱり、誰かに必要とされたいという気持ちはどこかにあるんですよね。

それでも人の役に立っていたい

それでも、不思議なもので「人の役に立ってる」と感じるとき、ほんの少しだけ心が温かくなるんです。自分が誰かの人生の一部を支えてる、そう思えたときには、この仕事をしていてよかったと思える。たとえ生きがいにならなくても、「意味はある」と思えること。それが、今の僕にとっての救いなのかもしれません。

生きがいにはなれないけど続けている理由

じゃあ、どうしてこの仕事を続けてるのか。多分、それは「続けてきたから」という理由が大きい。でもそれだけじゃなくて、やっぱり、少しだけ「この仕事が誰かを助けてる」と思える瞬間があるから。それと、隣にいてくれる事務員さんの存在。小さな日常のなかに、かすかな支えがあるからこそ、僕はこの事務所を続けているんだと思います。

事務員の存在が大きい

ひとりじゃ抱えきれない案件も、彼女がいればなんとか回せる。彼女がいてくれるから、愚痴も言えるし、笑う時間もある。多くは語らないけれど、そっと支えてくれていることは、ちゃんとわかってるつもりです。彼女がいなかったら、僕はとっくにこの仕事を投げ出していたかもしれません。

愚痴を言える相手がいるありがたさ

事務所の中で、ぽつりと「またか…」とつぶやいたとき、彼女が「ですねぇ」と返してくれる。そんなやり取りだけでも、ちょっと気持ちが軽くなる。誰かと気持ちを共有できるというのは、本当に大きなことなんだなと、歳をとるごとに感じます。大げさだけど、僕にとっての“生きがいに近い何か”は、仕事そのものじゃなくて、こういう関係性にあるのかもしれません。

たまに思い出す元野球部魂

野球部時代、正直スター選手ではなかった。でも、地味なポジションでも、全力でやることでチームの役に立てると信じていた。その感覚は、今も少しだけ残っている気がします。華やかさはないけど、コツコツやってる人間がいないと、チームは回らない。司法書士の仕事も、少し似ているところがあると思うんです。

地味でもバントは必要だった

誰かがホームランを打つためには、誰かが送りバントをしないといけない。目立たないけど、必要な役割。司法書士の仕事も、そういう存在なんじゃないかと思うときがあります。派手さはなくても、社会の流れを少しだけ円滑にしてる。そんな自負が、僕を支えているのかもしれません。

派手なホームランばかりじゃない人生

人生って、ホームランばかりじゃない。打てない日も、空振り三振の日もある。でも、それでもバットを握って立ち続ける。そんな野球部時代の精神が、今の僕にもどこか根づいている。仕事が生きがいになりきれない日々でも、それでも前を向いて働くこと。それが僕なりの、生き方なのかもしれません。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓