依頼人のひと言で、全てがひっくり返ることがある
司法書士という仕事は、書類と手続きだけを扱っているように見えて、実際には「人の記憶」と向き合う場面が少なくありません。特に相続の案件になると、依頼人の「記憶違い」がとんでもない方向へ話を導いてしまうことがあります。それまで順調に進んでいた手続きが、一言の訂正で振り出しに戻る――そんなことが本当にあるのです。そして一番厄介なのは、当人にとってそれが「間違い」ではないこと。記憶はあいまいで、人はそれを確信しているから厄介なのです。
「あれ、言ってませんでしたっけ?」で始まる悪夢
慎重に進めてきた手続きが一瞬で白紙に
あるとき、兄弟2人の相続案件で、依頼人の兄が「もう遺産分割は済んでいて、弟も了承してます」と断言したため、弟には連絡せずに登記準備を進めていました。しかし、いざ登記直前に弟から突然連絡が。「そんな話、初めて聞いたんですけど?」――まさかの逆転劇です。急遽説明と謝罪のためにアポを取り、準備していた書類はすべて無駄に。こちらとしては「騙された」と言いたいところですが、依頼人の兄は「勘違いだった」と。何を信じて仕事すればいいのか、本当に疲弊しました。
信頼関係と事実関係のズレ
「本人がそう言っていたから」と進めた処理が、あとから「そんなことは言ってない」と否定されると、もう立つ瀬がありません。依頼人との信頼関係があっても、事実が伴わなければ意味がない。でも、だからといって常に疑ってかかるのも難しいのが現実です。書類で確認できるものはまだしも、「気持ち」「了承済み」「話してある」という曖昧な情報に振り回される毎日は、神経がすり減ります。
よくある「記憶違い」のパターン
亡くなった人の財産の把握ミス
「預金はこの2つだけです」と言われて出された通帳。しかし数週間後、別の親族から「こっちにも口座がある」と通帳コピーが送られてくるパターン。しかも額が大きい。本人は「そういえばあったかも」とケロリ。こちらとしては報告書を書き直し、再度確認。まさに時間と労力の浪費です。故人の財産なんて、普段から見ている人が少ないのだから、記憶違いは当然起きる――と割り切るしかないのかもしれません。
話が出てこなかった「もう一人の相続人」
相続人調査が終わり、必要書類をそろえて申請準備万端という段階で、「実は…父には前妻との間に子どもがいるかもしれません」と爆弾発言。今言う? 今!? と思いながらも、こちらは職務上、調査をし直すしかありません。戸籍をたどれば実際に存在しており、しかも所在不明。連絡が取れないなら、特別代理人の申立てなどに発展します。依頼人は「大したことじゃないと思って…」という顔ですが、手間は数倍。苦笑いしか出てきません。
口約束と登記実務のズレ
「家は兄がもらうことで話がついてる」と依頼人が言うので、遺産分割協議書を作成。ところが、署名の段階で他の相続人が「そんな話聞いてない」と。口頭で済ませたつもりになっているケース、実に多いです。しかも、その“つもり”が本人にとっては確固たる事実。登記に必要なのは書類と同意。気持ちでは登記は通りません。けれど、現場では「気持ち」のズレが一番面倒だったりします。
記憶違いにどう向き合えばいいのか
依頼人の記憶違いを責めることはできません。でも、それによって業務が大きく変わる現実を前に、感情を押し殺すしかない場面も多いのです。記憶の曖昧さを前提に業務を組み立てることが、精神的なダメージを減らす唯一の道かもしれません。
まずは怒りより確認
「それ、本当に言ってましたか?」の聞き方
感情的になって「それ、言ってませんよね!?」と詰めたところで、依頼人との関係が悪化するだけです。冷静に、「念のため、書面で確認しておきたいのですが…」という形で、事実確認の機会を増やしておく。自分を守るためだけでなく、依頼人を困らせないためにも、この“確認スキル”が不可欠です。ときには、あえて忘れたふりをして再度聞き出すことも必要になります。
メモと録音が頼りになる現実
記録をとっても信用されない虚しさ
「こちらでこうおっしゃってましたよね」と録音やメモを提示しても、「そんなつもりで言ったんじゃない」と返されることも。証拠を出しても、言った側がそれを否定してくる。正直、心が折れそうになります。しかも、そのやりとりに時間がかかる。依頼人との信頼関係を壊さないよう気を遣いながら、記録の正当性を主張する――毎回が綱渡りです。
それでも記録は自分を守る盾
どれだけ理不尽に思えても、記録があるかないかで結果は大きく違ってきます。録音や議事録の有無が、後々のトラブルを防ぐ鍵になります。疲れますが、メモは必須。とくに「重要な話は繰り返して言ってもらう」「確認書をもらう」などの手順を面倒がらずに徹底することで、自分自身の精神衛生にもなります。もはや“防具”のような存在です。
事務所としてのリスク管理
事務員との連携が地味に重要
一人で依頼人対応をしていると、記憶違いがあったときの証明が難しくなります。うちのような小さな事務所では特に、事務員との連携が大切です。横でメモを取ってもらったり、証人のような形で会話に同席してもらったり。忙しい中でも、「二人で対応する体制」をなるべく維持することで、リスクを分散させています。実は地味な安心材料です。
言った・言わないの混乱を減らす体制作り
口頭確認だけでなく、「書いてもらう」「メールに残す」「チェックシートでサインをもらう」など、形式的でもルール化しておくことで、依頼人の“うっかり”を防げます。最初は「そこまでやる?」と自分でも思っていましたが、今はやっていないと不安になるほどです。人は忘れる。だから、仕組みで守る。そう割り切るようになりました。
あとがき:そんなことで振り回される毎日です
依頼人の記憶違い――それ自体は責められるものではないとわかっているつもりです。でも、そのたびに手続きが止まり、やり直しが発生し、精神的にも時間的にもじわじわと削られていきます。「言った・言わない」に左右される仕事に、今日も振り回されています。
人間って、覚えてないことを平気で断言する生き物
「絶対にそうだった」と自信満々に話す依頼人の目を見るたびに、「この人、本当にそう信じてるんだろうな」と思います。人の記憶って、こうも曖昧で、でも本人には真実なんだなと痛感します。だからこそ、私たちが扱うのは「事実」と「記録」。信じる気持ちと、疑うプロとしての視点。そのバランスに、今日もまた悩んでいます。
でも、それを支えるのがこの仕事なんですよね
愚痴ばかりになってしまいましたが、それでも依頼人が安心してくれた瞬間や、「頼んでよかった」と言ってくれた時の気持ちは、何ものにも代えがたいものです。記憶違いに振り回される毎日だけど、だからこそ、私たち司法書士が必要なんだとも思います。文句を言いながらも、結局この仕事が嫌いじゃないんですよね。