朝のルーティンは同じ、なのに心がざわつく日
毎朝、同じ時間に目覚ましが鳴る。顔を洗って、コーヒーを淹れ、新聞をめくる。いつものように、玄関を出て事務所までの道を歩く。変わったことなんて何もないはずなのに、心の奥に妙なざわつきが残っている。なにか引っかかっているような、でも原因がわからない。そんな朝が、年々増えている気がする。
コーヒーの味も、道の景色も変わらないのに
いつもと同じ豆、同じ量、同じ湯加減。それなのに今日は妙に苦く感じた。道すがらの景色も、馴染みのある看板も、何ひとつ変わっていない。なのに、どこか落ち着かない。こういうとき、自分の感覚がおかしいのか、それとも目に見えない何かが変わったのか、そんなくだらないことで頭がいっぱいになる。
ほんの些細な違いが不安の種になる
前の日に見た夢が悪かったのかもしれない。あるいは、昨日の依頼者のちょっとした言葉が尾を引いているのかもしれない。人の心なんてものは、案外ちょっとしたことで揺らぐものだ。特にこの仕事、感情を表に出さない分、内側に溜まりやすい。気づかぬうちに不安が心の奥底に巣を作っている。
郵便受けのチラシ1枚にも動揺する理由
事務所に着いて郵便受けを開けたとき、見慣れないチラシが一枚。ただの不動産広告。だけどそれが「移転のご案内」だったりすると、なぜか自分のことのように感じてしまう。この町で続けていけるんだろうか、取り残されるんじゃないかって。そんな不安が、突拍子もなく胸に湧き上がる。
「何か忘れている気がする」症候群
予定帳には特に重要な案件はない。なのに、ずっと「何か忘れてる」という感覚がつきまとう。司法書士という仕事は、ひとつの見落としが致命傷になる。そのせいで、「何もない」ことが逆に怖い。慣れたはずの静かな日常が、急に不安の温床になるのだ。
予定はないのにソワソワする一日
メールチェックをしても、新着はなし。電話も鳴らない。書類も整理済み。それでもソワソワして、何度もスケジュール帳を見返す。こんな日はたいてい何も起こらない。でも逆に、心の中で「何かが起きるのを待っている」ような感覚になる。まるで嵐の前の静けさのようだ。
小さなミスが後を引く職業的な性質
以前、登記の書類を一部提出し忘れて、依頼人に頭を下げたことがある。たった1件。それでも、それ以来、どんなにチェックしても「本当に大丈夫か?」という疑念がつきまとう。司法書士にとって、信頼は何よりも大切。その重さが、日常の何気ない瞬間に牙をむく。
慣れているはずの業務に潜む落とし穴
毎日繰り返す登記業務や相談対応。慣れているからこそ、油断も生まれる。確認の手が抜けそうになる瞬間、ふと我に返る。「あれ?いま、ちゃんと見たか?」。そのたびに心がざわつく。まるでいつも通りの動作に、何かが混ざり込んでしまったような気分になる。
定型業務に感じる得体の知れない違和感
今日の書類は、いつもと同じ内容、同じ形式。だけど、なぜか手が止まる。名前の一文字、住所の番地、印鑑の位置。どこかに違和感があるのに、それが何かはっきりしない。こういうとき、違和感を放置すると後悔する。だから念入りに見直すのだけど、その時間がまた、不安を呼び込む。
「慣れ」が引き起こす判断ミスの怖さ
慣れとは、安心のようでいて、実は最大の敵なのかもしれない。「大丈夫だろう」と思った瞬間にミスが生まれる。特に同じパターンの業務が続いた後は危ない。心のどこかで「またこれか」と流してしまう。だけど、その「またこれか」の中に地雷が潜んでいることもある。
事務員の一言で心がザワッとする日
うちの事務員さんはまじめで気が利く。でも、ふとした雑談の中で「〇〇先生のところは最近すごく忙しいらしいですね」と言われて、思わず言葉に詰まる。「うちは暇ってことか?」と、卑屈に受け取ってしまう自分が情けない。でも、たぶんこの感覚もまた、“いつもと同じなのに違う”不安の一種なんだと思う。
何気ない言葉が刺さる理由
たぶん、自分の中に自信がないからだ。「よくやってるよ」と自分に言い聞かせても、誰かの一言が簡単にそれを打ち砕く。昔からそうだった。テストの点は良くても、「どうせ暗記でしょ」と言われれば一気に崩れる。司法書士として独立した今も、心の芯は案外もろいままなのかもしれない。
誰も悪くないのに気持ちが沈む瞬間
そういうとき、事務員さんが悪いわけでも、言葉の内容が悪いわけでもない。ただ、自分の心の状態が弱っているだけ。わかってはいる。だからこそ、余計にやるせない。机に向かっていても、ふと手が止まって、窓の外をぼーっと見つめてしまう。無意味な時間が、じわじわと不安を育てていく。
「この仕事、向いてないのかも」と思う瞬間
どんなに経験を積んでも、「自分には向いてないんじゃないか」と思う日がある。たぶん、完璧主義の気があるからだ。いや、完璧主義にならざるを得ない仕事だからかもしれない。でも、そのせいで、少しのゆらぎに対して過剰に反応してしまう。まるで自分が崩れていくような錯覚にとらわれる。
比較してはいけないとわかっていても
SNSで同業者の投稿を見て、「こんな案件を今月だけで何件も」とか「メディアに取り上げられました」とか、そんな言葉が目に入るたびに、自分の存在が小さく思えてくる。比べても意味がないってわかってる。でも、気にしないっていうのは、できる人の特権だ。
同業者のSNSが心をざわつかせる
自分がやっていることは、自分なりに意味がある。依頼者一人ひとりに丁寧に向き合って、目立たなくても地道に積み重ねている。だけど、画面の向こうの“華やかさ”を見ると、自分の歩幅がやたらと遅く見えてしまう。焦りと無力感が、心の奥に重たくのしかかってくる。
不安が膨らむ夜の静けさ
夜、ひとりで夕飯を食べていると、ふとしたときに“空っぽ”を感じることがある。テレビの音がやけに大きく聞こえたり、箸を置く音が妙に響いたり。誰にも邪魔されない時間なのに、心のざわめきだけが残る。安心できるはずの静けさが、不安を膨らませる空間に変わる。
テレビの音が無性にうるさく感じる夜
何も考えたくなくてテレビをつける。でも、内容が頭に入ってこない。声だけが部屋に響いて、逆に孤独感が増す。消した方がいいのに、消すのが怖い。無音になったら、いまの不安がはっきり形になってしまいそうで。そんな夜が、週に何度かある。
そんな日でも仕事は待ってくれない
不安だろうが、気分が落ちていようが、依頼は来るし、登記期限は迫る。感情にかまけて立ち止まっていたら、信頼も仕事も失う。だから、どんなに気分が晴れなくても、机に向かって手を動かす。そうするしかない。そうすることしか、できない。
依頼者の笑顔がつらく感じるとき
「本当に助かりました」「先生にお願いしてよかったです」。そんな言葉をかけられると、うれしいはずなのに、胸が痛くなる日がある。「自分にはその価値があるのか?」と疑ってしまうからだ。自分にとっては“当たり前のこと”でも、相手にとっては“特別なこと”になっている。そのギャップが、心に負担をかける。
「ありがとう」がプレッシャーになることも
感謝の言葉は、重たい。ありがたい。でもその「ありがとう」に見合う仕事ができたか、自分で自信が持てないとき、プレッシャーになる。「ちゃんと返せているだろうか」「次も期待されるだろうか」。そう考え始めると、もう心はぐるぐると回り始める。
それでも明日も「いつも通り」を続ける
どんなに不安でも、どんなに気分が乗らなくても、明日は来る。そして、また朝になれば、顔を洗ってコーヒーを淹れて、事務所に向かうだろう。いつもと同じように見えて、どこか違う。だけど、それでいい。そんなふうに、少しずつでも、自分を前に進ませているのだと思いたい。
安定は退屈か、それとも安心か
変化のない毎日は、つまらないと感じることもある。でも、その“変わらなさ”に救われているのも事実だ。地味でも、退屈でも、同じことを丁寧に続ける。それがきっと、司法書士という仕事に必要なこと。そして、そんな自分の姿を、どこかで誰かが見てくれていると信じたい。