週末の予定が「空白」のまま、心も少し空っぽになる
金曜の夕方、ひと仕事終えて時計を見る。その瞬間、ふと気づく。「あれ、明日も明後日も誰とも会う予定がないな」と。予定がないのはありがたいはずなのに、空白の週末に襲われるあの妙な焦燥感は何なのだろう。忙しい平日は誰かの依頼や電話で埋まっているけれど、土日になると、逆に自分が空っぽになった気がしてしまう。
誰にも「ご飯行こうか」と言えない気まずさ
学生の頃のように、気軽に「飯行く?」なんて言える相手がいなくなった。別に嫌われてるわけでもないと思いたいけど、「今さら何を話すの?」なんて自問自答してしまう。誘っても断られるのが怖くて、そもそも誰にも連絡しない。年齢を重ねるほどに、「誘う」という行為そのものが妙に重たくなる。結果として、誘わないことが自分を守る手段になっている。
断られるのが怖くて誘えない自分がいる
以前、思いきって知人に「土曜の夜空いてる?」と聞いたことがあった。軽い気持ちだったのに、「あー、ごめん。その日は家族と出かける予定があって」と返された時の虚しさが、思いのほか心に残った。断られた内容がどうこうじゃなくて、自分には「家族」という予定がないことを突きつけられた気がしてしまった。
予定がないのは、好かれていない証拠なんだろうか
そんなつもりじゃないと頭では分かっている。でも「この人と食事したい」と思ってもらえる存在ではないのかも、なんて考えてしまう。実際、日々のやりとりも事務的なものが多くて、誰かと深くつながってる感覚はない。人としての魅力が足りないんじゃないかという自己否定のループにハマる時がある。
せっかくの休み、でも「何もない」ってけっこうしんどい
予定がないって自由でいいな、と昔は思っていた。だけど今はその自由がプレッシャーになっている。「せっかくの休日なんだから何かしなきゃ」と思うものの、結局コンビニで弁当を買って、テレビをぼんやり眺めて終わってしまうことが多い。その度に「何してんだろうな」とため息が出る。
仕事の忙しさでごまかしてきた「空白の時間」
平日は忙しいから、孤独を感じるヒマもない。でも、週末はふとした瞬間に「何のために働いてるんだろう」と考えてしまう。誰かと過ごす時間がないと、自分の存在意義すら見失いそうになるのが怖い。だからまた、仕事に逃げ込む。空白を埋める手段として。
弁当を温める音だけが部屋に響く夜
夜、レンジで弁当をチンしてる時の無音の時間。テレビもつけず、スマホも見ずにいると、本当に「誰もいない」ことが浮き彫りになる。たった一人分のご飯が、これほど切なく感じるとは思わなかった。誰かの「いただきます」が聞きたいだけなのに。
食事という「孤独」がつきつけてくる現実
食べるという行為は、ただの栄養補給以上の意味を持つ。誰かと食べるとき、そこには会話が生まれ、安心感がある。でも一人で食べると、何かが欠けている気がしてならない。どんなに美味しいものでも、共有できなければ味気ない。司法書士としてどれだけ社会的に機能していても、個人としては満たされない。
ひとりのご飯は自由だけど、自由すぎて虚しい
「好きなものを、好きな時間に、誰にも気を遣わずに食べられる」──それは確かにひとりご飯の良さだ。でも、それが続くと、自分の中の「生きてる実感」みたいなものが希薄になっていく気がする。会話も、食卓も、時間も全部が一方通行だと、心まで孤独に侵食される。
好きなものを食べてるのに、なぜか満たされない
ある日、自分へのご褒美だと焼肉を一人で食べに行ったことがある。味は確かに美味しかった。だけど、ふと隣の家族連れの会話が聞こえてきた瞬間、自分だけ時間が止まっているような気がした。肉はうまい。でもそれだけじゃ、足りなかった。
食後の沈黙が、やけに長く感じる理由
食事が終わったあと、誰かと「おいしかったね」と言い合う相手がいないと、急に静寂が押し寄せてくる。テレビの音すら心に届かず、沈黙だけが部屋を満たす。こういうとき、人はやっぱり誰かとつながっていたいんだと痛感する。
「人と食べる」って、実は贅沢なんだと思い知る
誰かと一緒にご飯を食べるって、当たり前のようでいて、実はすごくありがたいことなのかもしれない。お互いの時間が合って、気を遣い合って、会話をして、同じものを口にする。その一連の流れは、思ったよりも奇跡的なことだ。
仕事のつながりでは埋まらない心の隙間
司法書士という仕事は人と関わることが多い。でもそれは“役割”としてのつながり。本当の意味での「人と人」としての関係は、なかなか築けない。だから、仕事で誰かと会っていても、寂しさが埋まるわけじゃない。
「お疲れさま」のひと言が欲しかっただけかもしれない
仕事が終わったあとに、誰かから「今日もお疲れさま」って言ってもらえたら、それだけで一日の疲れは和らぐ。ご飯を一緒に食べながら、そんな言葉を交わせたら。そんな小さなやり取りこそが、実は一番欲しかったのかもしれない。
それでも、この仕事に救われている
孤独を感じる日々の中で、それでも自分を支えているのはこの司法書士という仕事だ。誰かの助けになっていると感じられる瞬間が、自分の存在価値を確かにしてくれる。そして、そんな日々の中にも、小さな光はちゃんとある。
誰かの人生に関わっているという小さな誇り
登記や相続、法律的な手続きの中には、人生の節目が詰まっている。そんな大切な場面に関われるのは、ありがたいことだ。人との会話が少ない週末でも、「誰かのために働いた」という記憶が、心を満たしてくれることもある。
感謝の言葉が、空っぽの食卓に光を差す
先日、「本当に助かりました」と深く頭を下げてくれた依頼者の言葉が、週末の孤独を少しだけ癒してくれた。食事はひとりでも、感謝の気持ちを受け取ったとき、自分は一人じゃないのかもしれないと思えた。
自分の寂しさも、誰かの助けになることがある
孤独を知っているからこそ、依頼者の悩みに寄り添えるのかもしれない。だからこの寂しさも、無駄じゃない。誰かとご飯を食べる日が来るその時まで、この仕事を通して誰かとつながっていようと思う。