誰かの家族になりたかっただけなのに
40を過ぎて、独身で、地方の片隅で司法書士として仕事をしている。そんな僕が一番よく聞かれる言葉が「忙しそうですね」だ。でも、正直に言えば、自分でも何に追われているのか分からない。ただ、朝起きて事務所を開け、書類をさばき、依頼に応え、帰って寝る。それを繰り返しているだけ。そんな生活の中で、ふとした瞬間に思うのだ。「誰かの家族になってみたかったな」と。
朝、目覚ましが鳴る部屋に「おはよう」はない
毎朝6時に目覚ましが鳴る。けたたましい音が鳴り響く中、布団の中でしばらくぼんやりしている。誰かに「おはよう」と声をかけられるわけでもなく、かける相手もいない。テレビをつけても朝の情報番組の明るさが、どこか空虚に感じる。コーヒーを淹れても、1人分だと味気ない。そんな朝が、もう何年も続いているのに、未だに慣れない。
たまに話すのは事務員さんと配達員さんだけ
仕事中に交わす会話は、事務員さんとの業務連絡と、配達に来る宅配の方との「お疲れさまです」程度。冗談を言い合えるような相手もいなければ、プライベートな話をする相手もいない。人と話すのが面倒なときもあるが、誰とも話さない日が続くと、それはそれで心に堆積していくものがある。会話って、こんなにも心の湿度を保つものだったのかと、ようやく気づいた。
「忙しそうですね」って言われても、何が忙しいのかわからない
「お忙しいでしょうけど…」と切り出される相談や依頼の数々。確かに、スケジュールはそれなりに埋まっている。でも、それは“誰かの役に立つための忙しさ”であって、“誰かと生きていくための忙しさ”ではない。日々の業務は、ただ時間を埋めるためのパズルみたいなもので、心を満たすものではないのかもしれない。
「今日もお疲れさま」の一言が遠すぎる
仕事終わり、コンビニで晩ごはんを買って、家に帰る。そのときに聞きたい言葉が「おかえり」だったり「今日もお疲れさま」だったりする。でも、それはスマホの中のSNSで見かけるだけの言葉で、自分には届かない。独り暮らしに慣れているつもりでも、こういう当たり前の言葉が欲しくなる夜がある。
仕事の中に逃げ場はあるか
依頼者の話を聞いていると、ふと自分の感情を忘れられる瞬間がある。人の相続や不動産の問題に集中しているとき、自分の寂しさや焦りから一時的に離れられる。けれど、それは一時的な麻酔のようなもの。依頼が終われば、また自分の現実に引き戻される。仕事は逃げ場にはなれない。心の居場所にはなってくれない。
書類の山に、自分の存在を埋めているだけかもしれない
机の上のファイルの山を見るたびに、「こんなに自分は頑張ってる」と思いたくなる。でも、それは自分の存在を証明したいだけで、誰かと心を通わせたいという本来の望みとは違う。忙しくすることで、自分を誤魔化しているんじゃないか。そんな疑念が、静かな時間にふと顔を出す。
電話を切ったあとの沈黙がつらい
「それでは失礼します」と電話を切ると、事務所は一気に静寂に包まれる。人と話していたという感覚はすぐに消えて、元通りの“ひとり”。この切り替えの早さに、寂しさが一層際立つ。誰かと話す時間の余韻すら残らない。そんな感覚に慣れきってしまっている自分にも、ちょっとした嫌悪感を覚える。
相続登記の相談は聞けても、心の相続は誰にもできない
仕事柄、親族との関係や家族間の問題を多く扱う。感情が絡む場面も多いけれど、それを冷静に処理するのが僕らの仕事だ。でも、自分の中にある“家族になりたい”という気持ちは、どこにも引き継げないし、引き継がれもしない。人の絆をサポートしていながら、自分には何もない。この矛盾に、たまに心がきしむ。
一人事務所で積み上げたものと、積み上がらなかったもの
自分で事務所を立ち上げて、十数年。ようやく安定したと言えるかもしれない。でも、その過程で何かを得るたびに、何かを失ってきた気がする。特に人との関係や、日々の小さな幸福感。気づけば、数字と手続きに囲まれて、「幸せ」って何だっけ?と考えるようになった。
信頼はあっても、信頼だけじゃ心は埋まらない
お客様から信頼されるのは、ありがたい。紹介が増えるのも、ありがたい。けれど、信頼は仕事上の評価であって、感情を満たすものではない。信頼されるほど、プライベートの孤独が浮き彫りになる感覚は、なかなか言語化できない。信頼と寂しさが共存している、それが今の自分だ。
責任と自由は紙一重、だけどどちらも重たい
自営業の自由と責任は表裏一体。誰にも指示されず、好きにやれる反面、何もかも自分で背負うしかない。だからこそ、自分の感情を誰かと分かち合うことの大切さに気づく。でもそれができないまま、また今日も書類に向き合うしかない。
「ひとりでやれててすごいですね」に隠れた孤独
「先生はひとりで何でもできて、すごいですね」と言われることがある。でも、あれは褒め言葉ではなく、独りであることの確認のように聞こえるときがある。ひとりでいることを誇っていた時期もあった。でも、今はただ、それが当たり前になってしまっただけ。自慢じゃなく、慣れでしかない。
「誰かの家族になる」ってどういうことだったんだろう
家庭を持つこと。誰かと暮らすこと。子どもを育てること。どれも経験がない自分にとって、“家族”は想像の中の存在だ。温かいけれど、届かない。たぶん、僕は家族という言葉に“居場所”を重ねていたのだと思う。誰かの特別になりたかった。そんな単純な願いが、ずっと心の中にある。
家庭を持てなかったのか、持たなかったのか
若い頃は仕事を理由にしていた。でも、今思えば怖かったのかもしれない。誰かと一緒にいるということの責任に耐えられなかったのかもしれない。そうやって逃げてきた結果、今がある。それを後悔してるわけじゃない。でも、たまに夢に見る。知らない誰かが「おかえり」と言う夢を。
「帰る場所がある」という感覚を知らないまま
仕事を終えて帰る場所はある。でも、そこに“誰か”がいるわけじゃない。玄関の明かりは、誰かがつけてくれたものじゃない。料理の匂いがするわけでもない。だから帰宅はただの“移動”だ。誰かにとっては当たり前の“帰る”という行為が、自分にとってはずっと意味を持たないままだ。