遺産分割の相談に来た男
午前10時を少し過ぎたころ、一人の中年男が事務所の扉を開けた。黒縁メガネにグレーのスーツ、妙にぴったりとしたネクタイが気になった。書類一式を持っており、開口一番「遺産分割協議書の確認をお願いしたい」と言ってきた。
まぁ、よくある依頼のように聞こえる。しかし男の言葉とは裏腹に、その目の奥にはどこか妙な焦りが漂っていた。気にするほどでもないと自分に言い聞かせつつも、何かが引っかかるのだった。
笑顔とハートマークの謎
男が差し出した協議書には、相続人全員の署名押印が揃っているように見えた。しかし、その中のひとつだけ、妙に丸っこいハートマークが添えられていたのだ。司法書士としては見過ごせない違和感だった。
「これは…誰の印ですか?」と尋ねると、男は少し口ごもりながら「妹です。ちょっとふざけてしまって…」と答えた。だが、ふざけた印にしては妙に整っていて、まるで計算されたようだった。
違和感だらけの委任状
さらに目を通すと、委任状の日付が協議書の日付よりも未来の日付になっていた。あってはならないミスだ。提出前にこれに気づかなければ、法務局ではねられる。
「おや?」と私が声を漏らすと、サトウさんがすかさず「時系列、逆ですよ」とモニター越しにぼそりと呟いた。やれやれ、、、こっちはまだ頭がぼんやりしていたというのに、さすがだ。
サトウさんの冷静な一言
その後、男が帰ったあと、サトウさんが「協議書のインク、香水の匂いがしましたね」と言い出した。思わず鼻を近づけると、たしかにほのかなフローラル系の香りが残っていた。
「女の人が持ち込んだんじゃないですか?」と言われて、ふと協議書の筆跡が一部だけ異なることにも気づいた。力強い筆致の中に、一箇所だけ柔らかく丸みを帯びた文字が紛れていたのだ。
封筒の封印と消された跡
さらに、男が置いていった封筒の裏面を見ると、セロテープを一度剥がしたような跡があった。これは、中身を差し替えた可能性が高い。ドラマでよくある「すり替え」ってやつだ。
ルパン三世のように華麗にとはいかないが、封筒に細工をする程度なら素人でもやれる。少なくとも、私のような凡人よりは手際がよかったのかもしれない。
協議書のフォントが違う
事務所のプリンターで比較印刷してみると、協議書の本文と、問題の1行だけフォントが微妙に異なることが判明した。MS明朝とヒラギノ明朝の違いだ。肉眼ではなかなか分からないが、並べると一目瞭然。
「これは…一部を差し替えた可能性がありますね」とサトウさんが静かに言う。こういう時の彼女の声は妙に冷たく響く。どこかのアニメの名探偵のように、淡々と核心を突いてくる。
プリンターか手書きか
検証の結果、その1行は明らかに後から貼り替えられたものとわかった。さらに不思議なのは、貼り替えた紙の角がハートの形に切り抜かれていたことだ。そんな細工、わざわざやる意味があるのか?
そう思いながらも、「…恋愛沙汰か?」という安易な結論が頭をよぎった。だが、これは単なる愛情表現ではなさそうだ。もっと計算された、ある種の“仕掛け”に見えた。
やれやれ、、、不穏な過去の整理
過去の登記記録を洗っていくと、3年前に似たような相続協議がこの家族で行われていたことが分かった。そのときの協議書には、今回と同じ名前があったが、印影が違っていたのだ。
しかも、その「妹」とされる女性はすでに亡くなっている記録が役所に残っていた。つまり――今回の協議書に押された印影は、死人の名前を騙った“誰か”のものということになる。
相続人とされる女性の正体
調査の結果、実は男が交際していた元恋人が、亡くなった妹の名前を使って偽造していたことが明らかになった。男はその事実を知りながら見て見ぬふりをしていたらしい。
彼女は生前、妹と顔立ちが似ていたという話もあり、騙すことにあまり苦労はなかったのかもしれない。だが、そうやって手に入れた相続は、まやかしの上に成り立つ偽りのものだった。
司法書士としての一手
私は法務局に対し、協議書に不自然な点があることを報告する文書を提出した。内容の整合性と、印影、筆跡の不一致を示す証拠も添付した。これで、登記の申請は一時停止となるはずだ。
「登記官がどう判断するか、見ものですね」とサトウさん。まるでホームズのワトソン役のような冷ややかな台詞だが、たしかにこの結末がどうなるかは、気になるところだった。
検認されたはずの協議書の破綻
数日後、検認の担当者から「署名筆跡が一致しない」という公式な連絡が届いた。それにより、協議書は正式な効力を持たないと判断され、全て白紙に戻された。
依頼人だった男は、その後すぐに転居届を出して行方をくらませた。恋と嘘を重ねた彼の遺産は、誰の手にも渡ることなく、空白のままとなった。
真実と結末
事件のあと、私はふと机の上に残された一枚のメモに気づいた。「協議書にハートを添えて――これが私なりのサヨナラです」と書かれていた。元恋人が残した最後の“愛情”だったのかもしれない。
だが、愛情は時に刃にもなる。協議の余白に添えられたハートは、決して優しさではなかった。むしろ、それは復讐という名の鋭利な武器だったのだ。
恋ではなく、復讐の印だった
サトウさんが呟いた。「あの人、最後に勝ったつもりかもしれませんけど、全員不幸ですよね」。私は、黙ってうなずいた。やれやれ、、、それでも書類は、今日も積み上がっていくのだった。
また一つ、協議の陰に潜んだ真実を見た気がした。司法書士の仕事は、単なる確認作業ではない。そこには人の感情と、嘘と、時に未練が絡み合っているのだ。