遅れてますよ、ってそれだけ?
「体調、大丈夫ですか?」と聞かれることがある。でも、その次に必ずと言っていいほど続くのが「で、あの件、今どうなってますか?」という言葉。結局、心配されてるのは“自分”ではなく“仕事”だと気づいたのは、たしか40代に入ってからだった。司法書士という職業は、責任感が強い人が多い。自分で選んだ道とはいえ、その重さに押しつぶされそうになることも少なくない。人としての存在よりも「きちんと処理されているか」が最優先される日常に、ふと寂しさを覚えることがある。
この仕事、倒れても止まらない
ある冬の日、熱が38度を超えても、私は事務所に出た。クライアントからの問い合わせが数件、登記の締切も間近だったからだ。「倒れてる場合じゃない」と自分に言い聞かせながらデスクに向かった。すると昼過ぎに1本の電話。「あの書類、まだですか?」。体調の話は一切なし。電話口からは焦った声での催促だけ。その時、なんだか笑えてきた。ああ、僕がいなくなっても、書類は求められるんだなって。自分の価値が、業務の進行状況で測られているのが、この仕事なんだと改めて思った。
ベッドの中で思い出す「納期」
ようやく休めた日、布団にくるまっているのに、脳内はぐるぐると“納期カレンダー”を再生していた。仕事が終わらないと、安心して寝ることもできない。布団に入っても、あの依頼のメール返信はしたか、登記完了報告は送ったか、そんなことばかりが頭をよぎる。「身体を休める」って、なんだっけと思う。疲れを取る時間すら「無駄」に思えてしまうのは、もうだいぶ末期なのかもしれない。
体調不良に対する反応は「で、いつまでに?」
一度、「今日は熱があるので…」と事情を伝えたら、返ってきた言葉が「それで、書類はいつできますか?」だった。その人に悪気はなかったと思う。でも、その瞬間、全身の力が抜けた。「大丈夫ですか?」のひと言がほしかったわけじゃない。ただ、「人間として」扱われたいだけだったのに。そういうささやかな気持ちが通じない世界にいるのかと、ふと虚しさがこみ上げた。
事務所に一人、また一人。孤独な責任者の重さ
今は事務員さんが一人いるけれど、過去には何人も辞めていった。たいていの理由は「向いてないと思ったから」。たしかにこの仕事、地味でプレッシャーが大きい。でも、残されたこっちはたまったものじゃない。業務の引き継ぎ、進行中の案件の対応、急に増える電話対応…。結局、「自分がやるしかない」状況に追い込まれ続けてきた。頼るべき存在がいないという現実が、責任者という肩書きの重みを実感させる。
「あなたがやらないと回らない」呪いの言葉
「先生がいないと、この事務所は動かないですからね」。褒め言葉のように聞こえるこの一言が、時に呪いのように心に刺さる。責任感という言葉は美しいけれど、裏を返せば逃げ場がないということ。誰も代わってくれない、ミスは全て自分の責任、成果も失敗もすべてが“自分次第”。そういうプレッシャーの中で、気づけば自分の心の声を無視するようになっていた。
誰にも頼れない優しさが、自分を潰していく
「忙しそうだから声をかけるのを遠慮しました」。事務員さんのそんなひと言に、なんとも言えない感情が湧いた。優しさかもしれない。でも、頼られなさすぎて、逆に存在意義が薄れていくような気もした。僕は一人で何でもこなす“便利屋”ではない。なのに、弱さを見せると「この人も頼れない」と思われるんじゃないかと、つい無理をしてしまう。優しさってなんだろう。時に、それが人を追い込む刃になる。
愚痴を言う相手がいないという致命的欠陥
SNSに仕事の愚痴を書くこともある。でも、どこかで見られている気がして、言葉を選びすぎて本音が出せない。昔は飲み屋でグチるのが楽しみだったけど、今はコロナの影響もあって足が遠のいた。気づけば、誰にも弱音を吐けず、自分の中で全てを処理するようになっていた。ふと、「人って、どうやって休むんだっけ?」と思う時がある。ため息ばかりついてる自分に気づいて、またため息が出る。
「頑張ってますね」が一番つらい言葉になるとき
「頑張ってますね」と言われると、返す言葉に困る。「はい、なんとか…」と答えるけど、本当はもう頑張りたくない。頑張ることを前提にされると、そこから降りることが許されない気がするから。もっと肩の力を抜きたい。もっと人間らしく「今日はもう無理」と言いたい。だけど、それを言える空気がこの職場にはない。だから今日も、机に向かって「頑張る」しかない。
それでも、今日もドアを開けてしまう理由
じゃあ、なぜ辞めないのか。なぜ毎日ドアを開けて、書類の山と向き合うのか。それはやっぱり、この仕事が嫌いじゃないからなんだと思う。しんどいけど、登記が無事に終わった時の達成感はある。依頼者の「ありがとうございます」に救われる瞬間もある。そういう小さな光のために、僕は今日もこの場所に戻ってくる。誰かの“遅れ”を支えるために、自分の心を少しずつ削りながら。