「なんかあったら聞きますね」は地獄の伏線

「なんかあったら聞きますね」は地獄の伏線

「なんかあったら聞きますね」が意味するもの

この言葉、よく耳にするけれど、実際に誰かが“聞いてくれた”場面に遭遇したことがあるか?正直、記憶にない。私も何度か言われたし、かつては使った側でもあった。でも今の自分が思うのは、「なんかあったら」と口に出す人ほど、たいてい何も聞いてこない。むしろ、その言葉をきっかけに自分の孤独を自覚させられたりするのだ。相手のやさしさのつもりが、こちらにとってはただの予告編に過ぎないこともある。

本気で言ってる?それとも保険の言葉?

思いやりのようで、実は責任回避の言葉。「なんかあったら聞きますね」と言えば、それで義理は果たした気になる。だけど実際にこちらが話しかけたとき、あからさまに忙しそうな態度をされたり、別の話題にすり替えられたりする。あれはひどく消耗する。言葉の裏には「でもこっちからは何もしないよ」という前提が透けて見える。だから、言われるたびに胸の中に小さな絶望が積もっていく。

「気軽に聞いてね」が気軽じゃない空気

特に職場でこれを言われると厄介だ。肩書きや立場が違えば、“気軽”という言葉自体が嘘になる。私は司法書士として事務員を雇っているが、もし事務員に「なんかあったら聞いてくださいね」と言われたら、何をどう聞いていいか悩む。相談すれば気を遣わせるし、黙っていれば距離ができる。気軽な関係を築くには、そもそも日頃からの関係性が土台にないと成立しない。

言われた瞬間、距離ができた気がした

ある知人に「なんかあったら聞きますね」と言われたとき、なぜか妙に距離を感じた。普段から会話は少なかったが、その一言を境に、ますます何も言えなくなった。まるで「君とはこれ以上深く関わらないからね」と言われたような感覚。何もないふりをしてしまう自分が、ますます孤独を深めていく。

実際、なんかあっても誰にも言えない

言ってもどうせ迷惑だろう。そんな思いが染みついているから、いざという時も声を上げることができない。特に一人で事務所を回している身としては、弱音を吐くことすら「仕事の妨げになる」と思い込んでしまう。司法書士という職業柄、なんでも一人で抱え込むクセがついているのかもしれない。

言ってもどうせ迷惑でしょ?という遠慮

昔、友人に仕事の愚痴をこぼしたことがあった。すると「それ、私に言われてもなぁ」と返された。あれ以来、人に悩みを話すのが怖くなった。迷惑をかけたくないというより、「冷たくされるくらいなら最初から言わない方がマシ」という自己防衛。だけど、そうやって黙り続けることが、結局は自分を壊していく。

相談する側が「空気を読む」時点で終わってる

本来、相談ってもっと自由でいいはずなのに、話す側が気を遣ってタイミングを図ったり、話す内容を選んだりしなきゃいけない時点で、もう関係性は終わってるんじゃないかと思う。私はいつの間にか“気を遣う相談者”になってしまっていた。

疲れきって声も出ないとき、言葉は届かない

本当にしんどいときは、誰かに助けを求める余裕すらない。ただ机の前に座って、パソコンを見つめて、時間だけが過ぎていく。そんな状態では「なんかあったら〜」なんて言葉は、虚空に消えるだけ。声をかけてくれるなら、その前に一緒に黙っていてほしい。

司法書士という仕事が抱える“孤立”の構造

この仕事、基本的には一人で判断して一人で責任を背負う。依頼人の人生に関わる書類を前に、間違えられないというプレッシャーの中で毎日を過ごしている。どんなに忙しくても、誰にも相談できないのがつらいところだ。

一人で判断し、一人で責任を負う日々

行政書士や弁護士のようなチーム体制もない。何かあればすべて自分に返ってくる。だからこそ、他人の「聞きますね」という言葉に期待しない。いや、できないのだ。責任という名の鎧を着てしまった以上、そう簡単には脱げない。

事務員さんにまで気を遣ってしまう矛盾

唯一の事務員にも、私の弱音は極力見せないようにしている。事務所の空気を重くしたくないから。けれどそれがまた、自分の首を締める。誰にも頼れず、誰にも愚痴れず、ただ笑ってやり過ごすしかない状況が続く。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。