朝の来客と震える印鑑
事務所のドアが開いたのは、まだ朝のコーヒーもぬるい時間だった。初老の女性が、少し震える手で封筒を差し出してきた。「これ…兄の遺言と相続関係の書類です」と静かに言った彼女の声には、何かを隠すような硬さがあった。
封筒から取り出した書類の束の中に、委任状が一通、まるで震えているような印鑑の跡と共に綴じられていた。その印影は、朱肉の中に心の揺れを閉じ込めたように不安定だった。
朱肉に染まる手
私は何気なく押印の位置に目をやったが、何かがひっかかった。少し右にずれた印。紙を斜めにして押したような角度。そして、わずかに紙が湿っている。誰かが直前に汗をかきながら押したのかもしれない。
依頼者は「兄が亡くなる直前に書いたものです」と言ったが、私は無意識に書類の端を指先でなぞっていた。違和感が、静かに、だが確実に胸を叩いていた。
依頼内容は相続登記
「父名義の土地を兄が相続し、その兄が亡くなったので…」という経緯らしい。表面上はよくある相続登記の依頼だが、書類の表情が違った。司法書士を十年以上やっていると、紙も話すようになる。
「法務局に出すのは、ちょっとだけお時間をください」と答える私に、依頼者はわずかに顔を強張らせた。そこに、微かな緊張が走った。
妙な違和感とサトウさんの視線
「シンドウさん、これ…」とサトウさんが私の机に書類を並べながら呟いた。彼女の目線は、私が見落としていた小さなズレを正確に捉えていた。筆跡は本人のものにしては、力の入り方が違う。
「これ、押したの…多分本人じゃないですよ」と静かに言うサトウさんの声には、確信があった。まるで「サザエさんで言えばマスオさんがノリスケに成りすまして給料もらってる」みたいな不自然さだ。
委任状の端に震えた文字
筆跡を比較し、拡大コピーした紙を並べてみる。通常の署名と、今回の委任状の署名。サトウさんの指が示す微細な筆圧の違いに、私は元野球部の洞察力でうなずいた。フォームが違う。癖がない。
誰かが急いで書いた。しかも「なりすまして」。
サインではなく印が震えている
「印鑑が震えるって、そういうことなんですね」と私が呟くと、サトウさんは軽くため息をついた。「そうですね。人の嘘って、紙の上にも滲むんですよ」と。
「…お見通しか」と思わず心の中で言ってしまった。まるで名探偵コナンの阿笠博士が、うっかり推理しちゃったみたいな感覚だった。
被相続人の経歴を追って
被相続人の名前で登記されているはずの土地を地図で確認すると、実際には別の人間が住んでいた。しかも、そこにいたのは依頼者ではない。「遺言書」の中身が怪しくなる。
「やれやれ、、、またこういうややこしいパターンか」と思いながら、古い登記簿謄本を片手に、かつての相続関係を追い始めた。
公図と謄本に現れた矛盾
公図では「北側の宅地」に接していたはずの土地が、謄本上では「農地」と記載されていた。登記名義人の名義変更がされておらず、誰かが「そこにあるはず」と言っているだけだった。
地番の付け替えもなければ、境界の確認もない。すべてが「言ったもん勝ち」状態だった。
サザエさん一家より複雑な家族構成
兄弟は7人、相続放棄者3名、認知された子が2人、そして内縁の妻。まるで磯野家とフグ田家と波野家が三つ巴になったような複雑な人間関係だった。
「一人でも認知無効の訴えを出せば、全部やり直しです」とサトウさんが淡々と言い放った。私は、背筋が寒くなった。
元野球部の直感が告げる嘘
野球部時代、サイン盗みには敏感だった。今回もその感覚が働いた。誰かが「本当のことを隠そうとしている」時、文字のリズムが崩れる。それはまるで、ピッチャーの投球フォームが崩れる瞬間のようだった。
依頼者が語る「兄の最期」には、不自然な空白があった。
やれやれ、、、変なクセが騒ぐ
「やれやれ、、、また嗅ぎつけちまったか」そう呟く自分に呆れながら、私は再度、書類に目をやった。うっかりしたつもりでも、最後に詰めるのが司法書士の性だ。
癖というのは、案外頼れるものなのだ。
筆跡鑑定もどきの検証
無料のPDF印影検証ソフトを使って、私たちは裏書きなしでできる範囲の照合をした。やはり、別人の筆跡だ。しかも、それが依頼者本人のものと一致していた。
つまり、彼女は自作自演で兄の遺言を作っていたということになる。
塩対応の中に光る真実
「登記申請、止めます」とサトウさんが断言したとき、私は何も言えなかった。彼女の判断の方が私より早く、正確だった。私はその後ろ姿に、少しだけ頭を下げた。
塩対応でも、その芯の強さが事務所を支えていることを、私は知っている。
サトウさん怒る
「何度も言いましたよね。こういう時こそ、慎重にって」 「はい、すみません…」 机の上の朱肉を見つめながら、私は答えた。怒られているのに、なんだか安心していた。
机の裏のもう一通
依頼者が帰ったあと、サトウさんが「机の裏に何かありました」と差し出してきた。それは、本物の遺言書だった。病院からの封筒に入っており、そこには「全財産を甥に」と書かれていた。
震えていた印影は、偽造だったのだ。
真犯人は司法書士の前で震える
再度事務所に訪れた依頼者に、私は黙って本物の遺言書を差し出した。彼女はしばらく固まった後、崩れるように椅子に座り込んだ。
「…すみません、私、どうしても土地を守りたくて…」 朱肉に指を入れようとした手が、小刻みに震えていた。
印影が語った意志
法は冷たく、しかし精密に真実を照らす。印鑑は言葉を持たないが、その揺れが語った。そこには、「書きたくなかった意志」が浮かんでいた。
法務局には提出しなかった。代わりに、事実の記録だけを残した。
過去の遺言と今の嘘
兄の遺言には「妹に渡すな」とは書かれていなかった。ただ「甥に渡したい」とだけ。憎しみも恨みもなかった。依頼者の嘘は、守るべき何かを見誤った心の産物だった。
そして登記は止まった
私たちは登記申請を中止し、受理された書類をすべて返却した。その日、法務局の窓口はいつもより静かだった。
誰かの人生を、紙一枚が変えてしまう。司法書士という仕事の重みを、私は改めて感じていた。
依頼者の涙と未提出の申請書
依頼者は涙を流しながら「すみませんでした」と言った。私はただうなずいた。罰は、法律だけが下すものではない。
法が救えないもの
法律で裁けないことが、この世にはある。だが、救えることもまた、そこにある。印鑑は震えていたが、その心は、やっと静かになったのかもしれない。
晩夏の事務所にて
夕方、セミの声が止んだ頃、私は書類棚を閉じて深いため息をついた。「今日も、疲れたな」 背後から「プリンタまた詰まってますよ」と塩対応の声。
今日もプリンタが紙詰まり
サトウさんが、ジャムった紙を無言で引っ張り出していた。私は何も言わずに、その横でボールペンをカチカチと鳴らしていた。
冷めたお茶と冷静な相棒
机の上のお茶はすっかり冷めていたが、事務所の空気はどこかあたたかかった。相棒の冷静な判断と、ほんの少しの信頼が、今日の真実を救っていた。