誰にも話しかけられない週末が、こんなに堪えるとは
平日はとにかく忙しい。朝から晩まで登記のチェック、相談の応対、そして「書類の山」。少なくとも誰かと会話しているし、意味のある会話をしている…と思い込んでいた。でも、週末になると急に世界が無音になる。スマホは沈黙したまま、誰にも呼ばれない自分だけの空間に投げ込まれる。たった二日間。されど二日間。誰にも話しかけられないという現実が、心にじわりと染みてくる。これが地味にキツい。
平日はまだ「仕事」が話す理由になってくれる
月曜から金曜までは、なんだかんだと声を出している。「先生、書類できました」「この登記、いつ出します?」そんなやりとりでも、人と接している感覚がある。仕事ってすごい。会話する理由を無理やりにでも作ってくれる。気が乗らなくても、しゃべらなきゃ回らないから口を開く。だからこそ、週末に突然訪れる「誰にも必要とされていない感じ」が、余計に堪えるんだろう。
事務員との会話が唯一のコミュニケーション
ウチの事務所には事務員が一人。平日はその子とのやりとりがあるだけでも、かなり救われてる。別に仲が良いとか、話が弾むわけでもない。だけど、「おつかれさまです」の一言がどれだけありがたいか、週末に気づく。彼女がいない土曜の朝、事務所の椅子に座ると、空気が一段と重くなる。これは誰かと働いてる感覚を、平日だけ借りてるだけなんだろうか。
電話もチャットも「用件」でしかない
平日でも雑談はない。取引先も登記官も、要件を終えたらすぐ通話は切れる。「それで失礼します」──この言葉の冷たさが、日常になってしまってるのが少し怖い。チャットツールも同じだ。「ありがとうございます」すらスタンプで済まされるような世の中。自分もきっと無意識に、そんなやり方を受け入れてしまってる。だから、余計に土日の無音がこたえるんだ。
土曜日の昼、沈黙が重く感じる瞬間
土曜日、気づいたら昼を過ぎていた。誰からも連絡はない。誰かに声をかけられることもない。家の中は静まり返って、物音ひとつしない。テレビをつければバラエティ番組が流れているけど、その声が逆にうるさく感じて、すぐ消した。すると、今度は時計の秒針の音が気になり始めて、少し怖くなった。声って、こんなにも人を安心させるものなんだと初めて知った。
テレビの音がなければ、無音の部屋
いつからか、テレビを「人の代わり」にしている自分がいた。朝起きたら無意識にスイッチを入れて、昼ごはんを食べながら芸人の笑い声に笑ったふりをする。でも、それも「一人であること」を紛らわしているだけだと気づいてしまったら、余計につらくなった。リモコンを投げ捨てたくなる気持ちを堪えて、代わりに深いため息をついた。
買い物すら億劫になる孤独感
外に出るのが億劫になるのは、歳のせいじゃない。誰にも会いたくないからでもない。ただ、「また一人か」と思われるのが怖いだけ。スーパーでひとり、カゴに総菜を入れて、レジで「袋いりますか?」とだけ言われて帰ってくる。その短いやりとりが、今日はすごく刺さった。会話って、こんなに短くて冷たいものだっけ。昔の自分はもっと人懐っこかったはずなのに。
「寂しい」とは言えない職業のプライド
司法書士って、世間からは「しっかり者」と見られがちだ。たしかにミスは許されないし、信頼がすべての仕事だ。でも、そのイメージが自分自身を縛ってしまってる気がする。「弱音を吐いたら信頼を失うんじゃないか」「寂しいなんて言ったら、この仕事に向いてないと思われるかも」──そんな思いが、喉元まで上がってきた本音をいつも押し込めてしまう。
司法書士=しっかりしていると思われたい葛藤
この職業についてから、「愚痴は外で言うな」「笑顔で乗り切れ」と自分に言い聞かせてきた。でも、実際は全然乗り切れてない。たまに役所の帰り道でふと足が止まることがある。「何やってんだろうな…」とつぶやいても、答えてくれる人はいない。しっかりしてるフリをするのは簡単。でも、それが自分をどれだけ疲れさせてるか、わかってるのにやめられない。
弱音を吐くと信頼を失う気がして
一度、仕事仲間の司法書士に「最近ちょっとしんどい」と言ったことがある。そしたら、「そんなこと言うキャラだっけ?」と笑われて、それきり言えなくなった。悪気はなかったんだろうけど、自分の中で何かがスーッと冷めた。それ以来、愚痴はノートに書くか、心の中でこぼすことにしている。でも、やっぱり「聞いてくれる人」がいるのといないのとでは、全然違う。
でも、ほんとは誰かに「大丈夫?」って聞かれたい
本音を言えば、たまには誰かに「疲れてない?」って聞いてほしい。ちょっとした一言でいい。励ましなんていらない。ただ、「ここにいるよ」っていう存在を感じたい。昔付き合ってた人が、週末になるとよく電話してきてくれてた。その時は面倒だと思ってたのに、今はその時間がどれだけ大事だったか、痛いほどわかる。人って、失ってから気づくんだな。
LINEの通知が鳴らない土日、誰かが恋しくなる
LINEが鳴らない週末。通知ゼロ。既読もゼロ。別に嫌われてるわけじゃないと思う。でも、誰からも必要とされていないような気がしてくる。スタンプのやりとりすらなくて、開いた画面をそのまま閉じる。この寂しさを誰かに共有できたら楽なんだろうけど、それができないから孤独が深くなる。誰とも話さないまま月曜が来ると、少しだけ涙が出そうになる。
友達がいないわけじゃない、でも誘えない
昔からの友人はいる。でも、みんな結婚して子どもがいて、週末は家族と過ごしてる。「飲みに行こう」とか「どっか行かない?」なんて言える雰囲気じゃない。誘ったところで断られる未来が見えるから、自分からは声をかけない。だから連絡が来るのを待つ。でも来ない。そりゃそうだ、用事もないし話すこともない。でも、「誰かと話したい」っていう気持ちは、確かにそこにある。
既婚の友人には気を使ってしまう
一度だけ、既婚の友人に週末のランチを誘ったことがある。「あー、その日家族サービスで…」と断られて、「また今度」と言われたけど、あれから連絡は来てない。こっちが悪いわけじゃないのに、なんだか申し訳ない気持ちになる。「おれって邪魔なんじゃないか」そんな思いがこみ上げてきて、それ以来、既婚者に連絡するのはやめた。関係が壊れるのが怖くて、前に進めない。
「また一人?」と自分に言いたくない
日曜の夕方、外で一人ラーメンを食べながら、ふとガラスに映った自分の姿を見た。「また一人か…」とつぶやいて、思わず笑ってしまった。別に一人が悪いわけじゃない。でも、心のどこかで「誰かと過ごす週末」に憧れている。そんな自分が情けないと思いつつも、どうしてもそこから抜け出せない。繰り返す週末に、少しだけ自分を責めてしまうのだった。
それでも、一人を楽しむ方法を模索してみる
全部が全部、誰かといないとダメってわけでもない。一人の時間を大事にすることも大切だ。そう思えるようになったのは、無理に誰かに連絡するのをやめてから。声を出さない週末でも、自分なりに意味を持たせることができれば、少しは心が軽くなる。誰とも話さないからこそ、自分と向き合う時間になることもある。一人の時間を、もっと自分のものにしていきたい。
孤独を少しだけ「選んでみる」工夫
孤独を「避ける」んじゃなくて、「選ぶ」ことにしてみた。朝起きて、まず小さな声で「おはよう」と言ってみる。昼は近所の公園まで散歩して、鳥の声を聞いて、日光を浴びる。そんなことでも、「今日は誰とも話してないけど悪くない」と思える瞬間がある。孤独をコントロールできると、心が少し自由になる。強がりかもしれないけど、それもまた一つの進み方だ。
あえて声を出す、独り言でもいい
最近は意識的に独り言を言うようにしている。「今日は寒いなぁ」とか、「このコーヒーうまい」とか。誰にも届かない言葉だけど、声に出すだけで少し安心する。人間はやっぱり声を出す生き物なんだと実感する。誰かと話せないなら、自分と話してみるのも悪くない。やってみると案外楽しくて、「よし、あと一日乗り切ろう」と思えるようになった。
「話さなくていい時間」にも意味はある
沈黙がつらいのは、そこに意味がないと感じるから。でも、意味を自分で与えてやれば、沈黙も悪くない。読書したり、音楽を聴いたり、何かをじっくり観察したり。そういう時間って、意外と週末にしか持てない。話さないからこそできることがある。そんな風に考えられるようになって、少しずつだけど、週末を嫌いじゃなくなってきた気がする。